「ベイビーステップ」18-19巻
王者の視線
講談社 少年マガジンコミックス 18-19巻
勝木光
18巻から続いていた関東ジュニア準決勝の対難波江戦は丸尾が第一セットを取るか否かという展開で19巻を迎えた。劇中で「理想的な状態」=「ゾーン」になった立ち上がりは結果的に難波江の意表をつく形で立て続けにブレイクし、有利な状態でゲームを運んでいたかに見えた。だが、ゾーンから普段の状態に戻った丸尾は、難波江の冷静沈着なプレーにじわりと押され始め、第一セット奪取も怪しくなってきたところで、青井コーチの言葉を思い出した彼は、奇襲を交えた攻撃を試みた。
ゾーンの状態についての特徴的な描写については前回書いたとおり、眼の描写に象徴されていた。理性による戦略に思考をめぐらすことなく本能によって戦略が瞬時に決まる。眼の精緻な描写は、余計な考えが消え去ったようにとてもシンプルな形状で描かれた。ところが、今回のゾーンの丸尾の眼は、また違った様子で描かれた。
18巻を振り返ると、丸尾の眼は普段の眼と同じ描かれ方をしていた。だからこそ丸尾自身が自分の好調さを最初理解できなかったように読者も何故難波江から簡単にポイントを取れるのかが、よくわからなかった。だが、やがて自分がゾーンにいることを知り、読者も彼の強さに腑に落ちることになる。
このときの丸尾の眼の描写として際立つのが、難波江を眼の中に捉えているという点である(18巻117頁)。難波江は天才的な戦略性と判断力で常に確実なプレーを選択して実行出来る力を備えている。彼は、丸尾のプレーを凝視する。どのコースにどんな攻撃をするのか? 彼流の分析眼は、一瞬だけゾーンに入ったような淡白な眼として描かれるわけだが、それについては後述するとして、普段の丸尾も相手を凝視する視線は難波江とほぼ同じだ。いや、どの選手の描写も同じだろう。どんなボールが来るのか? 判断するモノローグが被さることもあるし、体重移動のわずかな違いや手足の傾きによって瞬時にコースを読む。モノローグがない描写によって、本能で身体が反応している表現がなされているわけだ。さらに相手を完全に読みきっている含意もあるだろう眼の中の難波江の描写により、丸尾のゾーン描写のパターンが1つ増えたとも言えよう。ゾーンから抜けると、丸尾が難波江を見詰める視線は眼の外に出ることになった。
普段の丸尾の状態になったところで、難波江の鋭い凝視の描写も減る。この戦いにおける丸尾の攻略の糸口を得た難波江は、攻撃パターンを絞ることで地力の差を担保に着実に加点することこそが丸尾を追い詰める最善策とばかりに、丸尾の攻め手を封じ始めた。19巻16頁からの展開が極めつけであると同時に素晴らしい場面だ。
丸尾の渾身の力を込めたサーブが大コマを使って2頁にわたって描写された。丸尾のパワーが乗り移ったかのようにボールがうねる。だが頁を捲ると、それにきっちりと対応する難波江がリターンエースを決めるのである。ここも2頁にわたって、このうねるボールを片手バックハンドで打ち返すのだ。テニス漫画の主人公にとって見せ場であるサーブを決める場面だと思わせた演出が、簡単に弾かれるような錯覚もあって、難波江の強さが丸尾に圧し掛かる。
難波江の強さを演出する設定の上手さは、彼のバックハンドを片手にした点が挙げられるだろう。丸尾のバックハンドは基本的に両手である。両手の力が込められたバックハンドと、片手によるバックハンドの迫力の差は、そのまま丸尾の力強い描写と難波江の軽快なフットワークとなって表れる。実際、片手バックハンドはリーチの長さを長所としながら、打点を前にしなければ力負けしやすい(難波江に片手打ちが出来るだけの筋力がある証拠でもあるが)という短所があるので、コースへの反応・読みが重要になるだろう。リーチは長いし手首のコントロールでも打ち返せるのだから彼の強さの描写にぬかりはない。
一方の丸尾の両手バックハンドは、そのまま力強い描写であり迫力を生む、結果、彼のウイニングショットとして両手バックハンドが描写されやすいのは偶然だろうか。この難波江戦で彼のポイントの場面の約五割が両手バックハンドによるもので、片手フォアハンドによるポイントは約2割5分、片手フォアの倍以上の数により両手バックでポイントを得ていると思われる(一方の難波江は片手フォアと片手バック、どちらもほぼ同じポイント数と思われる)。
さてしかし、難波江の強さに大きな重圧を受けながらも、丸尾は第三セットで再びゾーンに近づくことで突き放そうとする難波江に喰らいついた。難波江に「勝てるビジョン」がほの見えてきた丸尾に、ひょっとしたら勝てるんじゃないかと思わせる場面を描き、読者である私も今度こそ勝てるのではないか? マンガだからこそありえ劇的な展開・奇跡が起きるのだろうかとワクワクしたところで、19巻134〜135頁なのである。
134頁目は丸尾のモノローグである。勝機を見出した彼は、その時のビジョンを忘れないように反復して思い出し、戦略を練る。135頁は代わって難波江のモノローグである。彼は戦略について思索せず感情の制御に努めた、そして「正確に判断するんだ」と戦略を練る段階に至って、鋭利でシンプルな眼になるのである、ゾーンに入ったのだ。
前述したシンプルな分析眼は、運動だけでなく頭脳さえもゾーンのような状態にすることで研ぎ澄ますことが出来る強靭な精神力・感情を制御する力の表れであり、これこそが、おそらく難波江と丸尾の歴然たる強さの差なのだろう。
だが、戦い終わって敗れても丸尾は荒谷戦と違って精魂尽きることはなく、がっちりと難波江と対峙し、歓声も耳に届いていた。難波江は確かに手ごわいキャラクターだが、丸尾もまた、主人公として着実に成長しているキャラクターである。
さらなる主人公のステップが楽しみなマンガだ。
(2012.1.11)
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