桜井のりお「僕の心のヤバイやつ」2巻

豊かな表情へ

秋田書店 少年チャンピオンコミックス



 主人公の陰惨・残虐な妄想癖のあるクラスでも目立たない中二病風の市川と、長身美人でファッション雑誌のモデルでクラスの人気者の山田の交流をラブコメチックに描く2巻、市川が山田への好意を自覚したことで、物語は新たな展開を迎えた。山田を観察しつつ見詰めた先の彼女の言動に市川のモノローグで突っ込みを入れる構図を維持しながら、市川を気にする風な視線・表情の山田を描くのである。
 体育の授業で山田の視線を感じた市川の描写は、以降、山田からの積極的なアクションがこれまで以上に描かれ、彼自身がそれに惑わされる展開も増えた。中でも2巻から描かれるようになるのが、山田の市川への視線である。顔を入れ替えるアプリで山田が写真を撮ろうと市川を誘う場面で、鼻にボールをぶつけた金生谷に気を使って断る市川に向けた山田の表情、一瞬の一コマを切り取り、驚きのような感情を読者に見せる。市川だけでなく読者にとっても彼女の正面の顔は重要だ。市川を見詰めているということである。
 あるいは姉とマックで食事をしている最中に山田たち友達グループと遭遇した挿話では、市川の真後ろに座って市川と姉の会話を聞いているらしい山田の「……」という何か言いたげな表情が、市川の知らない状況で描かれる。市川のモノローグが物語のすべてにおいて、この山田と読者だけが知っている関係性は、山田もまた市川に何かしらの感情を抱いていると想わせるに十分な演出である。そして、席を立って一人階下で何かを買おうとする市川に「おう」と体当たりしてからの山田の振る舞いが「……」の思いと関連し、山田もまた市川に好意を持っているだろう、などといった読者の予想は、確信に至るだろう。ここでもまた市川に向けた山田の正面の顔を見ることができる。
 「僕ヤバ」2巻38頁
 2巻38頁。市川に見せた正面の顔、作画において大きな変化にお気づきだろうか。同時連載中の「ロロッロ」も含め、これは作者自身の変化でもあるのだが、結論から言ってしまえば、キャラクターの顔の中心たる鼻の描写である。
 桜井のりおの描く可愛い女の子の鼻の描写は、基本的に点である。これは少女漫画由来なのか少年漫画風少女の描写から発展したものなのか不明ではあるが、今の萌え作画の流れを踏まえた流行と言っても過言ではない。けれども、点鼻はコメディ風味の作風や小さな女の子では違和感がなくとも、ある程度成長したキャラクターとなった場合、かえって幼さを煽る結果になりかねない。「ロロッロ」では、「僕ヤバ」のヒロイン・山田に似たキャラクターとしてポリスが登場する。背が高く、手足も長く、長髪で顔の作りは山田よりやや面長程度である。彼女の鼻の描写は、今後変化する可能性もあるが、点ではなく、ある程度の形を想起させる程度には、ささやかながら鼻の稜線を輪郭として捉えている。また、全キャラクターに共通する描き方として、眉毛あたりから伸びる鼻筋も特徴的であり、男性や大人のキャラクターはその線が小鼻まで延びて描かれることが多く、ポリスの鼻筋もはっきりと長く描かれることがある。
 「ロロッロ」4巻112頁
4巻112頁。マシンガンを持った長身のポリスの顔。右眉毛の横から下に向かって線が伸びており、鼻の稜線の輪郭とくっつくときもある。「僕ヤバ」初期の山田も同様である。
 「僕ヤバ」の山田の鼻筋も真っすぐに描かれていた。
 「僕ヤバ」1巻6頁
1巻6頁。初期の山田。鼻筋の線が眉毛付近から引かれている。
 この描き方は、これまでギャグマンガを描いてきた作者にとって違和感がないものだろうし、鼻について強く意識したこともないのかもしれない。上にツンと向いた半円のような丸鼻・あるいは底辺のない三角形の鼻の「子供学級」から「みつどもえ」の点鼻、そして「ロロッロ」「僕ヤバ」における立体的な鼻への変化。
 この辺は「みつどもえ」で洗練されたと思われ、鼻は点であったり、そもそも描かれなかったり、省略することで、キャラクターたちの可愛さ・特に萌え絵としての記号的なスタンプ顔が確立されていた。けれども、山田はポリスのように・あるいは他の桜井作品の大人・男性キャラクター同様に長身だ。初期から鼻筋がしっかり引かれる傾向が強かったのだが、それでは可愛さが表現できない。
 特に1960〜1980年代少女漫画の研究家であり、その博識で一目置かれるマンガ家のきたがわ翔は、8月30日のツイートで興味深いことを投稿している。
「外国の方が日本の漫画絵を見て一番不思議がるのは鼻がない事らしい。今ではもはやただの点、が主流である。私たち漫画家の間で鼻問題は昔から切実だったが他の国では鼻をリアルに描く=可愛くないとは思わないらしい。日本におけるリアル鼻=醜悪の感覚はいつからなのだろうか?」
 「ロロッロ」と「僕ヤバ」で同時期に起きた鼻の変化は、おそらく意図的に、キャラクターの鼻に怪我をさせることによって、その前段階が立体的に描かれることになった。バスケットボールをぶつけられた山田の鼻の描写は、以下の図のように平面的な点鼻ではなく、鼻の形を意識した立体として描かれる。特に口の描写の平面さはギャグマンガとしてのデフォルメを残しつつも、点鼻からはなかなか想起できない立体感である。
 「僕ヤバ」1巻153頁 「僕ヤバ」1巻153頁
 「ロロッロ」でもボールを鼻にぶつけられて怪我をしたキャラクターが描かる。鼻筋を線で表現するだけの立体感に乏しい大きな鼻が、ここではやはり立体的に描かれる。
 「ロロッロ」4巻134頁 「ロロッロ」4巻134頁
 そして、怪我が癒えた後、両作品において鼻にくぼみのような影を入れるのである。
 「僕ヤバ」2巻42頁 「僕ヤバ」2巻42頁。
 「ロロッロ」4巻145頁 「ロロッロ」4巻145頁。
 この影のつけ方は、自分が調べた範囲では1985年から連載された楠桂「八神君の家庭の事情」が思い出されるが、桜井のりおの経歴から考えても接点が考えにくい。チャンピオンとサンデーだし、年齢差もあるし。また、連載中に作画を変えていく、しかも少しずつではなく、はっきりと変えた点から、作者の明確な意図がありそうだが、こればっかりは作者に聞かないと何とも言えない。(「手品先輩」の作者・アズも鼻にトーンを入れるなどして影を付ける作画であるが、山田のように鼻の横に影を付けるやり方ではない。桜井はアズ「手品先輩」の格好をさせた山田を描いたツイートを投稿しているため、影響はなくはないだろうが……。なお、厳密には「僕ヤバ」1巻発売の直前頃にこの変化がみられるため、1巻の書き下ろしマンガにはすでに影付き鼻の描写が確認できる)。
 いずれにせよ、ここでグダクダと当て推量しても詮ないので、鼻を立体的に描くことによる表情の変化を考えたい。

 「僕ヤバ」2巻42頁  「僕ヤバ」2巻42頁。鼻の影を消したもの
 再び2巻42頁の山田を引用しよう。左が原作で、右が鼻の影を消し、従来の点鼻にした山田である。二つを比べることで、何かわからないだろうか。
 キャラクターの顔以外の立体的な描写である。大きな胸による服装の皺の具合、鎖骨や首の、そこはかとなく艶やかな印象、ゆったりとしたカーディガンを覆う手と、指先の細やかな動き、または髪の毛の繊細なハイライト描写。点鼻がいかに省略しすぎていることか、そのバランスが周囲に比べて明確になっている。もちろん右の絵でも十分に可愛いだろうし、実際に可愛く描かれている。
 けれども、鼻に影を入れることで、山田の可愛い表情が格段にリアルになっているように私には見える。バランスがいいのだ。きたがわ翔先生が指摘するように、鼻はどこを輪郭として・線として捉えるかはマンガ家にとって大きな課題である。萌え絵の発展によって決定的となった点鼻による可愛いキャラクター描写は、下ネタからリアルな性感覚へ移行した桜井のりおの「僕ヤバ」の感情描写に似つかわしくない、リアルな鼻を手に入れることにより、より多彩な変化を齎すだろう。市川の鼻にもまた、影が加えられたのだ。キャラクターの表情は複雑になっていくに違いない。
 二人が好意をもって真剣に正面を向き合ったとき、その鼻は、真に二人の間に立ちはだかるのかもしれないが、それはずっとずっと先の話だろう。

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