佐久間結衣「コンプレックス・エイジ」
前を向いて歩く
講談社 第63回ちばてつや賞入選作品 http://www.moae.jp/comic/complexage
佐久間結衣
ゴスロリ服が好きな34歳の女性が、好きな格好を諦めざるを得ない瞬間を描いた短編である。ネットで話題となった頃に読んだわけだが、本作を読んでいただけでは深く感じ入ることもなく平凡な短編として読み流していただろう。というのも、34歳の女性が夢を諦めていく過程を過酷に描いた映画を先に観ていたからである。2013年公開、吉田恵輔監督「ばしゃ馬さんとビッグマウス」である。
この映画は、吉田恵輔監督の前作「さんかく」が傑作すぎて、今回はどうなんだろうと不安半分期待半分で鑑賞に臨んだわけだが、そんなものは杞憂に終わった、傑作であった。シナリオライターを目指す34歳の独身女性が、幾たびもコンクールに応募するも一次選考すら通らない現状、題名どおりに俺は天才シナリオライターと何も書いたことがないのにビッグマウスを掲げる若い男に出会い、自分を見詰めなおしていくうちに、夢を諦めざるを得ない現実を次々と突きつけられていく物語である。年齢だけでなく、老いた両親に対する不義理や元カレへの微妙な未練、そして夢に向かって今羽ばたかんとするビッグマウス男や成功した元仲間たち……
とても余韻が素晴らしい映画で、ラストシーンがとても気に入っているわけだが、それもこれも夢だのなんだといっていられる年齢をとうに過ぎて余裕すら生まれているからなのかもしれない自分に気付かせてくれたからである。
一方の「コンプレックス・エイジ」は、「ばしゃ馬」のような現実的な圧迫感が、加齢と社会という点に集約されている。映画と違って主人公には理解ある夫がいるし、ゴスロリは趣味の範囲で収まっており、仮に趣味をやめたとしても彼女の社会的立場に表向きは揺らぎがないだろう。
だが、その趣味に興ずる彼女のそこはかとなく漂う悲壮感というものが、どうがんばってもシナリオライターになれない自分と向き合えないでいながら、でも多分夢は叶わないだろうとどこかで考えている「ばしゃ馬」に見事合致したのである。6頁目の衣裳部屋入り口に立つ主人公がまさにそれだった。
なんでこんなに暗い雰囲気なんだろう。いや、部屋が暗いから当然の客観的な描写でしかないわけなんだが、お姫様になる場所として最初に読者に示された場面が、もうこのお通夜状態なのである。しかも構図は斜めに傾き、この絵だけ抜き出したら、ここから好きな服に着替えるワクワク感なんて微塵も感じられない。主人公の冷静な眼差しが物語の最初から描かれているのである。しかも彼女ののっぺらな、まるでゴスロリに興味ない女性が初めて見たその趣味の世界に呆然としているかのような印象なのである。もちろん、これは次の頁で着替えて化粧した時の彼女の笑顔との対比であろうし、公人としての一面と私人としての一面を描き分けた結果である。だが、公人として自分の趣味を見詰めなおしたときの、どこか冷めた感情が、この時すでに構図の意味に込められていた。
だが、そうした違和感も次第に忘れていく。何故なら、彼女の格好は多くの人々に注目されてしまうからである。背景で描かれる人々のほとんどが彼女に顔や目を向けているのだ。自分が周囲からどう見られているのか? 全てを理解した上で彼女は私人としてのゴスロリ趣味を貫いていたのである。公人としての自分の視線は、そうした周囲の圧力が作り出した仮面だったのだ。会社の同僚のアイドルと呼ぶには難しい年齢に差し掛かった芸能人の若々しい格好に対する容赦ない批判が、彼女の仮面を少しずつ厚くしていったのである。
だが、彼女の仮面は私人としての顔を侵食していた。20歳そこそこの同じ趣味の女性が語るゴスロリに対する冷静な自己分析と傲慢な主張(まさにビッグマウスだ)は、自分を見詰めなおす好機でもあったわけだが、19頁目、同じ年の友人と話す「夢から 覚めなきゃいけないんだろうね」という宣言は、私人としての顔の自殺行為と言っても過言ではない。
この二人の場面は、やはり通り過ぎた親子連れが振り返るほど目立つものだが、それでもその視線は好奇を含んだものであり、なんら批判的なものではなかった。だが、友人と二人っきりになったとき、自分の格好を見る視線は自分と同じ志を持つ人間であり、理解者だ。その理解者同士が自分たちの年齢から来る諸々・引き際を互いに考えるのである。自分自身が通り過ぎるその他の人々と同じように自分を見たらどう見えているのだろうか?
帰宅した彼女が鏡に見た自分の姿は、まさにそれだった。
「ばしゃ馬」のクライマックスで主人公は、渾身の一作をビッグマウス男と切磋しながら書き上げた。自分自身を描いたと思われるその物語は、映画の冒頭から主人公自身のモノローグで語られた内容そのものだった。ひょっとして、この映画の内容そのものが主人公のシナリオライターとしての第一歩なのだろうか? という結末に対するほのかな希望。主人公が切々と感じている無能と限界とは裏腹に、私はひょっとしたらを期待しているのである。だが、物語は私の楽観をあっさりと打ち砕いた。
主人公は、これまで作り上げた世界を一つ一つとり出しながら捨てていく。初めて作ったものもあったろう、最高傑作だと思ったものもあっただろう。そうした過去の自分を手にしては捨てていく。もう自分の限界を悟った以上、現状でもがき続ける動機がない。全部捨てる。夢をあきらめる、というのとは何か違う。それでも前を向いて生きていかなければならないから。
「ばしゃ馬」と「コンプレックス・エイジ」が重なった。
彼女の選択は唐突でも突然でも思いつきでもない。以前から薄々気づいていたことを、ようやく遅すぎるほどに形にしたに過ぎないのだ。
どちらの主人公も未練なく……いや、本音を言えば未練はありまくりかもしれない。ともかく、ショーウインドウに飾られたゴスロリ服を見詰めた彼女の表情から読み取れるものは、読者一人ひとりが感じるべき意味が込められている。未練ではなく懐古かもしれない、諦念かもしれない。だが、通り過ぎる人々の誰一人として自分に視線を向ける者がいないことだけは事実だった。
彼女は前を向いて歩く。振り返ることはしない。それは諦めたからではない。彼女はそれでも生きていかなければならないからだ、夫のため親のために仕事のために。雑踏の中にまぎれていく最後のコマから彼女の表情はうかがえない、彼女も背景の人々のようなその他の中に溶け込んでいく。一緒に夢を見た友人との待ち合わせ場所に向かう彼女がそこで話すことは、30代半ばの女性なら誰しも考えることだろう。
けれども、誰も見ようともともしないショーウインドウのゴスロリ服を彼女だけは今後も通り過ぎることなく目を留めるに違いない。誰しにも、きっと何か一つ、思わず目を留めてしまう過去があるのだ。
(2013.11.25)
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