「CORE<コア>」
講談社 ヤンマガKCデラックス 日本橋ヨヲコ短編集「バシズム」より
日本橋ヨヲコ
素朴な疑問、なぜ日本橋は漫画家になったのか。作品とはなんら関係ないことだが、読むたびにいつも思ってしまう不可解な気持ち。いっそ作者に直截訊くべきかもしれないが、その気はさらさらなく、ひとりで妄想するに限る。というのも、ひたすら高校生を主軸に展開される青春物語の数々は、短編集「バシズム」の帯「青すぎる春」なんてものではなく、あまりに痛々しいのだ。読者の感情をあらゆる点で激しく揺り動かしてしまう筆力と台詞は、決して面白いと叫ぶことができる代物ではないし他人に勇んで薦められるものでもなく、流れ流され辿りついた孤島の生活のように自給自足の自己完結するほかなく、つまり他人と一切共有できない感想しか残せない不幸を嘆きたくとも、つい無表情に悟りきった顔して諦観か、あるいは不愉快ゆえに唾棄して絵を見るのも疎ましいほどに抹殺か、複雑な心境に読めば読むほど追い込まれてしまう力に満ち溢れており、おぞましいとしか形容できない。
その源泉は、まず全然迫力のない立体感に欠けた絵にある。他の短編で描かれた疾走場面を一目見ればわかるだろう。作者の本領はこんなアクションにあるわけではないから、作品の価値にさして影響ないものの、たとえば「ストライク シンデレラ アウト」13頁1コマ目、「まるで泳ぐみたいに走るんだ」と語らせているが、そんな印象はない。説明文になっていて絵の表現と不釣合いであり、その後その少女が実際に走る場面が二回描かれるけれども、「泳ぐみたい」と感じた主人公はそこでは単に走っているところを見ている・追いかけているだけで感動なく、先の形容は前振りにもなっていない、あまり役立っていないのだ(細かい事を言えば、陸上の靴はあんな厚底ではないのだが。スパイクも付いてないし……それくらいしっかり調べろよ。それに走っている姿が好きだと言うのに、最後それを後ろから見る主人公は単に発情した少年……勘弁してくれ。と文句を言いつつ)、されどネームのまわし方は心得ていて、退学届を受け取る担任教師のあいまいな態度の理由がきっちりとクライマックスで明かされるといったこともあり、全体を見ると粗さが目立つものの、作者が登場人物の口々を借りて訴える真っ正直な主張はこれが結構心地良いから不思議である。画風の軽薄さと台詞の痛々しさがまるでかみ合っていないのにすんなりと読めてしまう(もちろん最初に疎ましいと感じた人は途中で読み捨てるだろう)からさらに不思議。で、次第にそれが、とうに思春期を過ぎたはずの自分を、真顔で現実がどうの人生がどうのこうの・または厭世観に浸り禁欲に沈み虚無に漬かりと生意気やっていた十代の頃の思い出すのもおぞましい恥ずかしさとぴたっと重なってしまうのだ。こうなると絵がどうこういう問題は無視して、ひたすら登場人物の台詞を追っかけるだけになってしまい、漫画を読むという行為は途中ですっ飛んで台本を読んでいるようになり、絵はト書きとなって記号化し、「日本橋ヨヲコの漫画を読んでいる」という大前提がいとも簡単に瓦解してしまうから一層おぞましいのである。
台詞以外のところはどうだろう。高校生だからあんなこと言うのも許容できるし、振りかえれば誰もが思うところありそうな思春期の哀調も、作者のくそ真面目なようでそうではない・意外と残酷な現実肯定も主人公たちの台詞であり語りであり、ふきだしに囲われているから読み進めることができる。さてしかし、この短編集のために描き下ろされた「CORE<コア>」は、やっぱり高校生の佐藤くんが山田さんに告白し、それが受け入れられるまでの過程を回り道せずに真っ直ぐに描いた佳作……といいたいところだが、私をおおいに悩ましてくれる文章が最後の最後にやってきて、本を投げ出さんばかりの不愉快さに顔が歪みきった。
一見して「CORE<コア>」は他の短編と違う線だとわかる、表紙はしょうもないが、中のラフな人物画はコマ枠ともどもに気に入ってしまって、だから二人の台詞の意味も半分どうでもよくて、初めて「日本橋ヨヲコの漫画を読んでいる」という味わいに浸って今後もこういう画調でなんか短編描いて欲しいとのんびり思っていたところで日本橋節が最後に炸裂したからひっくり返った。……一体これは誰に語りかけているのだろうか……
「多分、日本橋ヨヲコは言葉が多すぎる。多分、日本橋ヨヲコは考え過ぎている。多分、日本橋ヨヲコはいつか(漫画と)別れて、この告白(作品で訴えてきたこと)さえ思い出になる日が来るだろう。だから日本橋よ、嘘臭いくどき文句を語るのなら、いっそのこと体目当てだと言って欲しい」。
なるほど、自分に向けた言葉だったのか……過ぎた冗談を失礼。いや、半分本気だ、「体」に何が当てはまるかと考えたとき、それがそのまま日本橋が漫画を描く理由と直結しているかもしれないからだ。どうしてすんなりと小説を書かず、漫画と言う回りくどい方法で人間を訴えるのかわからなかった、漫画であれだけの直球が投げられるのだから、小説ならば……という思いも強い(漫画だから許されるとも言う人もあろうけど)。おそらくその質問に彼女はあっさりと答えるだろう、「漫画を描くのが好きだから」と。あくまで予想であり確信はないが。そうでなければ描けんよ、こういうの。いろいろと理由付けする必要なんてないし、それは私が日本橋作品を読む理由にもつながる、「日本橋作品を読むのが好きだから」と。そうでなければ読めんよ、こういうの。「漫画が好き」というのではなく、描く・読むといった行為が好きなのである。
それは意外に純愛だ。(なんちて)。
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