大童澄瞳「映像研には手を出すな!」3巻
縦の対話
小学館 ビッグコミックス
アニメによる最強の世界作りを目指す高校生たちの奮闘ぶりを、主人公格の浅草のファンタジー世界の空想設定を現実世界に織り交ぜながら描く「 映像研には手を出すな!」は、他にアニメーターを目指す水崎や仲間の金森を加えた三人の物語であったが、3巻に入って音響の百目鬼(どうめき)と提携、新たなキャラクターを加え、学校側が禁ずる自主制作物即売会COMET-A(コメット・エー)への参加を目論む。
フキダシの独特な遠近感や形状、縦を意識しコマ割りなど、独特な演出で物語を展開しつつ、世界観自体もアニメのような空想という体裁(浅草が劇中で語る「未来少年コナン」の世界がまさにそれである)を纏い、読者を現実と虚構のはざまに誘い込むパワーに溢れた作品であるが、今回、特に注目したいのが、コマの縦意識である。
1巻50頁 「お」「ち」「る」。矢印は筆者による
たとえば1巻50頁、映像研の部室として利用許可を得た三人が古びた家屋ではしゃいでいると(主に浅草が)、錆びた手すりが崩れて二階から落ちる場面では、図の矢印の通り「お」→「ち」がやや左斜め下へ、→「る」で落下速度が徐々に加速して、→「だう」で一気に背中から半回転しながら落ちたさまが描かれる。「る」→「だう」の流れにはスマホでその様子を捉える金森の動きも平行に近い角度で描かれ、落下まで撮影したことが動きによって理解される。また、「だう」からの「ドサ」っという擬音から、左下に降りた読者の視線は、その音の後ろにいるような、顔をしかめる水崎とカメラを構えた金森を見出すことだろう。 落下という一連の縦の動きを横三コマに区切り、さながらフィルムを繋げるようにしてコマ割りされ、作者の頭の中のレイアウトも垣間見れる。それでいて右下の1コマがこの状況下からとても浮いた存在で、現実の落下とは別の空間に存在する虚構世界のカメラ映像として、特別な一瞬となっており、そのままこれはテレビニュースのワンコーナーだろう「今日のまさか」という架空の番組で、同じ映像が流されることにより、虚構世界からあらためて、現実世界に現金三万円という形で三人のもとに帰ってくることにもなる。
ではもっといろいろと具体例を引用しよう。そうすることで、作者が如何にしてこの作品の世界・物語を縦のコマ割りというフイルムで表現しているのがか、見えてくるだろう。
3巻では、浅草と金森の回想場面が一挿話ずつ描かれる。背の低い浅草と、足が長く背もかなり高い金森、好対照の二人が対話をするとなれば、自然、浅草が見上げ、金森が見下ろすという構図が生じる。
60・61頁「3年前―」からの回想場面、体育の授業、浅草のモノローグと主観カットにより、金森との出会いを描く。冒頭、俯き加減の背中に浅草の憂鬱さや卑屈さが滲んでいる。ここから彼女の対人恐怖症の様子から、独りでいる金森を発見しつつ、初対面の印象が怖くて金森にも近づきたくないという独白から、その重症度も知れよう。二人一組でかつぎ合いの準備運動を金森とやることを教師に指示され、「一人は怖いけど、人も怖いんじゃ。」という顔面ドアップの浅草が描かれる。ここまでで注目すべきは背景である。浅草の主観やモノローグのカットには、鉛筆チックな描線による細部に拘った背景が全く描かれず、白い背景のまま、キャラクターたちが描かれる。この中では、浅草が何を見ているのか、何しか見えていないのかが明確に示されている。
教師から二人一組になってと言われた瞬間、モノローグから離れた浅草の意識は、そのまま画面に客観的な描写として、背景が初めて描かれ、体育館の中であることがわかる。彼女の小道具にまで神経をとがらせて描き込む毎度見開きで展開される空想世界(作者が言うところのドラえもんの図解)とは逆に、彼女にとっての現実世界が、真っ白でつまらないものであることを示しているようだ。
かつぎ合いをする浅草と金森の2コマは3巻62頁。下図である。
3巻62頁 かつぎ合いをする二人。構図の変化がポイント。
何気ない2コマに見えるが、ここにもキャラクターとそれを囲む世界の一端が見える。まず、構図が異なる点。二人の背の高さや力の違いから、1コマ目で金森が浅草をかつぐ様子をほぼ真横から描き、次コマは構図を変えて金森を担ぎ上げようとするも「ぐんむ」と出来ない様子を描く。構図を変えただけだが、この変化により、楽々と担いだ金森と、それが出来ない浅草の動きが対照される。構図の変化が間の溜めとなり、浅草の苦悶の表情は言葉だけでなく、画面全体と1コマ目の足のばたつかせたような動きとも連動して理解されよう。もちろん背景がない点も前述のとおりである。
また、これは作品全体に通じる特徴だが、キャラクターが今現在その世界にいる足跡とでもいおうか、風車をアニメーションするときに彼女たちが自ら解説して見せた、風の流れを視覚的に表現するための舞うもの(劇中では草)、このコマでは空気の揺らぎとでもいえる微妙なものだが、埃のようなものが足元にぱらついて描かれる。作者のあとがきから推察するに、画面の背景にしばしば描かれるこれらは、実際に埃であり、空気であり、風なのである。体育館の中で砂が舞うわけでもない、ただキャラクターの動きによって生じた空気や埃の動きが、マンガ記号として当たり前のように使われる動きの方向を示す流線や、身体が震える時によく表現される身体に沿うようにして描かれる震えたような線などの代わりを果たしていると言ってもよい。作者のいくつかのインタビューからも、そうしたマンガ的記号については使用しないというよりも、むしろよく知らないと語り、キャラクターの躍動感は、線ではなく、埃のような微小な物体や空気や風、光の加減といった、物理的な現象を描き込むことで表現される。
3巻63頁 金森の主観の介入。
さてその後、浅草は下校途中、世間を端に見ながら「将来の夢は仙人」とモノローグするほど厭世観を訴えるが、そこに金森が登場する。金森の奇妙な誘い、上図はかつぎ合いの次頁の5〜7コマ目である。金森を見上げる浅草と、浅草を見下ろす金森が、縦に並ぶ。浅草の後ろから声をかけた金森に、振り返って対面した浅草が「は?」と漏らすと、「葉」と切り返す。カットも互いの主観で切り返しあったように見えるが、浅草の顔は金森の左腕と思われる陰から捉えられ、金森の顔は浅草の頭頂付近から捉えられていることから、浅草の警戒心や、他人と対峙しているようで出来ない心境を視線のずれで演出しつつ(いや、ホントに作者がそんな意図を持っていたかどうかは知らない。私の感覚である。)、金森のアップの次のコマ・浅草のアップで、浅草は金森をはっきりと直視したと感じただろうし、同時に、金森が浅草の顔を見たとも捉えられよう。これまで浅草の主観によって構築されていた世界の背景に、金森の意識が介入したのである。(ちなみに、これらのコマにもキャラクターの周囲にちょとずつ埃っぽいものか浮遊している。)
二人は草摘みから駅への下校を共にする。そっけない金森に必死に付いていく浅草。背景は蘇り、やがて金森の「なんだ こつい。」というモノローグが生まれる。浅草の見ている世界と金森の見ている世界が融合した瞬間である。そして69頁のラストのコマ(下図)。
3巻69頁 音が遠くなる。金森の主観。
金森の見ている世界が背景をぼやかすことで・映像的な演出として考えれば、聞こえるはずの環境音が遠くなって消えていこうとする、すなわちキャラクターの内面世界に入るということであるが、偶然にも、同一構図の映像でどこに焦点を合わせるかで、コマの中心は何かを演出する手法(いわゆる被写界深度によるボケ表現。例として、117頁を挙げよう。1コマ目で手前のキャラクターに焦点を当て、背後のキャラたちはぼやけている。2コマ目では別の構図から遠く左手にキャラクターの顔が見え、3コマ目で彼女に焦点が当たり手前のキャラがぼやける。とてもわかりやすい。)であり、それは擬音であっても変わりはない。次頁は、見開きで展開された浅草が「設計図」と言うの架空世界の解説である。浅草の妄想であると同時に、金森がスケッチブックを上からのぞき込むように見ている様子が描かれずとも想像できる。
3巻117頁 被写界深度による映像的表現。
その後も警備部の突入場面の大立ち回り、ドローン発見場面の縦長のコマなど、縦に大きく動くキャラクターが入り乱れる攻殻機動隊の冒頭を模したという楽しい挿話もありつつ、是が非でもプロが演出した「映像研」をスクリーンで観たいのだ!
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