山田鐘人・アベツカサ「葬送のフリーレン」1〜3巻
死者の視線
少年サンデーコミックス
勇者が魔王を倒した後の世界を描く物語も、長い連載となっている。もちろんアニメも面白く視聴している。
物語序盤の山場でもあるアウラとの戦いを描く展開が、どのようにアニメ化されるのかが楽しみでもあった。特に、原作3巻のこの場面が、私にはとても印象深く、小さなコマでありながらも、切断された空隙から見えるフリーレンの後ろ姿が、素晴らしいと思えたのである。どうしてこんなに印象に残っているのだろうか。
3巻96頁5コマ目
原作は、激しい戦闘場面であっても、派手なコマ割りは控えめで、淡々とした展開・あえて物語の起伏を抑制した、静かな印象を与える作劇が施されている。フリーレンたちが立ち寄った城塞都市で繰り広げられたリュグナーとフェルンの戦い、リーニエとシュタルクの戦い、そしてアウラとフリーレンの戦いにしても、多少のアクション性はあっても、日常描写の延長であるかのような落ち着きっぷりで、フリーレンの何事にも落ち着いた様子と合致している。キャラクターにとって生きることも死ぬことも、現実世界同様に日常の一部なのである。
では、このアウラの場面はどうだろうか。「服従の天秤」によってフリーレンに敗れたアウラは、フリーレンに「自害しろ」と命じられるまま、相手を切るために構えたはずの剣を自らの首に当てた。このコマは、直感的に、胴体と、切り離された首の間に出来た隙間であることが理解できると同時に、アウラが見たフリーレンの後ろ姿、という錯覚も与えるだろう。
フリーレンの首を斬ってやろうとして、返って自らの魔法によって最期を迎えるアウラと、勝利を確信したかのようなフリーレン。これまで互いに向かい合って対話を繰り広げられてきた構図の終着点として、二人の姿が一つのコマに、どのような状態なのか一目瞭然のもとにされた。それが、たった一つの小さなコマで表されているのである。
けれども、前述のとおり、これはアウラの視点そのものではなく、あくまでそう思わせる視点というに段階に留められている。
2巻136頁3コマ目
たとえばこの場面。これも先に引用した場面と似ていよう。消滅していく魔族とフリーレンの姿を捉えたこのコマは、村を襲った魔族の子どもが結局村長を殺し、ヒンメルに腕を斬られ、フリーレンにとどめを刺された直後である。人間を欺く言葉「助けて」「お母さん」が描かれるこの回想、そして「村長はもういませんよ?」という魔族の子どもの言葉が、アウラの「ヒンメルはもういないじゃない」というセリフに通じるていることは言うまでもない。アウラ戦において、フリーレンが戦う理由や魔族という生物の性質が短い挿話の中で的確に描かれている。そんな中にあって、この視点は、消滅していく魔族の子どもが最後に見たであろう光景としてのフリーレンという存在感の大きさが描かれているのである。
つまり、劇中で最初の魔族の死を描いたこの場面も同様なのである。
1巻145頁5コマ目
「人間を殺す魔法」によって恐怖を与えた魔族・クヴァールのあっけない最期も、消滅しながらフリーレンを見ている。映画に例えるならば肩ごしのショット・いわゆるリバースショットであるが、これらの3コマをいずれも読者は魔族の視点から見たフリーレン、と捉えるだろうということである。
アニメは、このリバースショットを、実際に読者が体験したであろう魔族の視点をそのまま映像化する。魔族が実際に見た景色を、そのまま描くのである。
2巻148頁2コマ目
手始めにこの場面を見てみよう。リュグナーの配下のドラートが衛兵の首を斬る場面。マンガとしての見せ場は、ドラートがどうやって衛兵の首を斬ったのか、はっきりと描かない点にあるのだが、アニメでは割とはっきりとドラートの指から紐らしきものが描かれ、効果音とともに首をすっと落とすシーンに演出され、この構図・3巻96頁5コマ目のような塩梅で一瞬の出来事という瞬間と、ゆっくりと崩れ落ちる衛兵の身体というスピード感の対比によって描く。この後のフリーレンとの戦いの、切られてゆっくりと落ちていく腕と、一瞬のうちにドラートを撃破するフリーレンのスピード感とも連動し、フリーレンの強さが一層際立つ。
けれどもドラートの最期がまた原作とアニメで異なる視点で描かれていることを無視してはならない。
2巻156頁1コマ目
原作も上図で引用した通りに一瞬の出来事である。もったいぶることもなければ、勝利を確信して長広舌をふるうこともなく、相手の泣き言を聞く余裕も与えない。魔族を殺すことに躊躇がない。
ところがアニメでは、ドラートの最期の視点をしっかりと描いた。首に攻撃を食らう直前のシーン。原作のセリフ「待て!! 話を…」という最期の言葉をこのシーンに被せつつ、ドラートはゆっくりと消滅していく。
魔族の最期の視点は、リュグナーとリーニエでも描かれた。
リーニエの最期。シュタルクに閃天撃を食らって絶命直前に月を仰いで消滅していく。そしてリュグナーもまた、フェルンに一撃を叩き込まれた直後に、月を背にして浮遊するフェルンを認めるのである。
リュグナーの最期の視点は正確に言えば描かれず、原作通り攻撃魔法によって吹き飛ばされるシーンではあるが、月とフェルンという構図により、月を背にし、かつて己を追い詰めた天才魔法使い・フリーレンを想起するシーンと相似であることは指摘するまでもなく、フェルンもまた天才という予感・あるいはフリーレンの弟子として魔法を引き継ぐ者だろうという予感を生む。
そうしてアウラの最期もまた、アウラ自身の視点によって締めくくられる。アニメが巧みな点は、斬る、という当然次に予期される動作の前に長い髪の毛がさくっと簡単に切り落とされるシーンにより、首も同様に簡単に切り落とされるだろう、と感じさせるのだ。
原作では、錯覚に過ぎなかったアウラの視点を、現に斬り落とされたアウラの視点・胴体から離れて地面に落ちていく首を、きっちりと描いた。
左上に霞んで見えるフリーレンの後ろ姿。この死の直前に見た景色で、ようやく原作に近い構図となる。切り離された首と胴体を十分に想起させながら。
さてしかし、ここに至って魔族の死だけに焦点が当てられているわけではないことも忘れずに付記しておきたい。物語では、今後も多くの死が描かれることだろう。人間の死にせよ、魔族の死にせよ、そこには何かしらの思いがあるはずである。ときに3巻までの時点で、特にアウラにはその色が濃く出ていた。死に対する恐怖である。
魔族が人間の心を理解できない存在であることはフリーレンたちによってさんざん語られるわけだが(人間と魔族との対話についてもいずれ何か書きたいものである)、人間を欺くための言葉を、最期に至って、死を回避しようとするために発する。「助けて」も「待て!! 話を…」も、ここだけは殺されようとする人間の思いとさして変わらないのかもしれない。
だが人間は、死を恐怖するだけではなく受け入れることができるという点で、魔族とは一線を画している(だからこそ11巻のソリテールやマハトについても何か書きたいけれども)。原作にはない下図のシーンが、このアニメが描こうとする人間と魔族の違いを象徴している。もちろん読者もわかってはいることだ、魔族は消滅して何も残さない一方で、人間は死してなお、自分のためであれ誰かのためであれ、墓標や銅像という形で、あるいは他の方法(たとえば指輪とか!)で、その思いを残したいと切に願うことを。
勇者ヒンメルの棺に土をかけるシーンは、まるでヒンメルから見た景色のように思える。死してなお、その思いを物語に刻み続けることを暗示させているかのように思えてならない慈愛に満ちた、アニメオリジナルのヒンメルの最期の視点だ。落ちて転がる首や消滅していくという物理的な魔族の最後の視点と、死してなお思いを伝えようとする人間の視点の差が、最初の一話目で宣せられているかのようである。
一方、原作のヒンメルが最期に見た景色は、何だったんだろうか。四人で集まって流星をみる最後の冒険。「綺麗だ。」と一言つぶやくヒンメルの言葉は、エーラ流星に向けられた言葉なのだろうか。物語が進むにつれて浮かび上がってくるヒンメルの思いを汲んでいくと、流星という髪飾りをつけて一層美しく見えた、フリーレンの姿そのものに対してなのかもしれない。
(2023.12.13)
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