「フレフレ少女」
集英社 ジャンプコミックスデラックス 全2巻
よしづきくみち
映画原作マンガも最近は珍しくなくなったわけだが、よしづきくみち「フレフレ少女」もその一つである。
マンガ原作映画はよく観たけれども、その逆は全然関心がなかったのだが、表紙の少女の溌剌さに惹かれてさくっと購入し、映画を観終えてから全2巻を読み通した。
はっきり言おう。映画より断然面白い。基本的な筋は映画と同じなのに、なんでこうも面白さに違いがあるのか。前半のだれっぷりがひどくて苛立ちながらの鑑賞になってしまった映画。「ラブドガン」は未見だけど、悪い評判は聞いていないし、結構期待していただけに…って今調べたら大駄作映画「となり町戦争」の監督だったのか。だとしたらこの映画の出来も納得する。まあでも、後半の応援場面からの盛り上がりは、前半の悪いテンポのままでも持ちこたえ得るだけのパワーがあったけど(主演の新垣結衣が金切りっぽく甲高い声とはいえ、かなり熱演していたのが大きかったと思う)、それでもマンガと比べたら、その迫力は天地の差がある。私の脳内では主人公の声は常に新垣の声で再生されていたにも関わらず、彼女の声の強さもやはり映画より格段に印象深いものだった。
ただし、映画同様にマンガも前半(1巻)の展開はだるく感じた。コミカルな描写を増やし、主人公の桃子や他の応援団員のもろさをギャグっぽい展開で読者に見せるのは後半の熱気を伝えるには必要だろうし、映画も似たような意図があったのかもしれない(ただ、映画の前半の流れが駄目なところは、ストーリーに破綻が生じているってのが大きいんだけどね。コメディとして押し切るにしても言動のつじつまがところどころめちゃくちゃで、ホントに観てらんなかった。それでも「少林少女」よりははるかにマシだがな! あれはひどすぎる)。
では、マンガが映画のぬるい展開と決別したのはどこかってなると、合宿からの流れからだろう。映画では、はじめから5人のOBが合宿で桃子たちをしごくのだが、マンガはこれを柳原一人に任せた。しかも女性のアスリートという設定に変更したことで、応援する側・される側の両方の気持ちを知っているキャラクターにしたことになり、応援とは何かという言葉に説得力がもたらされたのだ。映画では桃子を演じた新垣の・いわばアイドル映画の趣があり、それが足枷になっていたのかもしれないけれども、マンガはもう一人の女性応援団員を登場させることで、彼女の存在が珍しいものではないような方向に読者を誘い(もちろん、それでも女性の団員が珍しいことに変わりはないけど)、同時に女性一人ぼっち状態から桃子を解き放す役割も担った。これにより、本の世界に閉じこもっていた桃子を柳原が外に連れ出していくという構図が自然と成立する。いきなり龍太郎との関係をクローズアップするのではなく、柳原という触媒によって、彼女自身の魅力が龍太郎と化学反応したわけである。
何より後半の怒涛の応援場面の連続に引き込まれるわけだが、マンガでは、仲間のための応援、という応援の原点(それは桃子たちが合宿で体験したことでもあった)に立ち戻り、それがみんなで形作っていく応援の流れに段々となっていく展開に燃えるのである。映画と比較ばかりして申し訳ないが、映画では幻の応援歌として語り継がれた「満開の桜」を、マンガではみんなで作詞して作り上げるという違いが象徴している。映画には、みんなでがんばるぞって熱が足りねーんだよ!
そして桃子たちの応援に反発していた野球部員が、応援によって活気付いていく。人にがんばれと言うからには、自分ががんばらなければならない、という桃子たちの想いは、野球部員をして、応援団ががんばっているのに俺たちが先に練習を終えるわけにはいかないという気合に変換されていった。
「人の心を櫻木に!!!」
実に効果的である。祈るだけでは通じない。かつて桃子が大嶋に抱いていた恋心も、ただ憧れているだけでは何も変わりはしなかった。大嶋はライバル校に転校し、そこの女子マネージャーと仲がいい。何もいえなかった桃子は、県大会決勝という大舞台で、言葉で想いを伝えることの大切さと意味を理解した上で、心よ届けと「ハーツハーツハーツゴー!!!」と叫んだ。この一場面に賭ける熱さがマンガには篭っている。2巻148-149頁の見開きもそうだ。本の中に閉じ込めていた自分の思いを、両手で吐き出すように構えて叫んだ桃子たちの声援が後押しした奇跡の大逆転劇は、一瞬、それが出来すぎたフィクションであることを忘れさせるほどの熱い心を感じさせてくれた。
(2008.11.10)
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