「げんしけん」第9巻 二人の距離その2

講談社 アフタヌーンKC

木尾士目



 さて、以前述べた二人の距離は笹原と荻上についてだったが、今回は「げんしけん」の真の主人公たる斑目と、彼の思い人・春日部の距離感を観察してみる。
 9巻について触れる前に見ておかなければならないのが3巻第14話「インナースペース」と6巻第32話「フタリノセカイ」である。2話とも斑目と春日部が二人っきりになっていろいろと話をする展開の上に、斑目の妄想・心中の声を叩き込んで徹底的に斑目視点で描かれる話でもある。特に14話は9巻第53話「告白」と絡んでいるだけに欠かせないだろう。
 14話は斑目が春日部への好意を真に自覚する話である。彼女を過剰に意識する余りにオタオタして妄想たくましくウロウロしている様子は滑稽ではあるが、そこに斑目の未熟な恋情を差し挟むことで、彼の気持ちが明らかになっていく・同時に春日部の彼への素っ気無い態度が、大きな壁となって立ちはだかっている現実を突きつけてくる。春日部に彼氏がいようがいまいが、彼女の斑目(というかオタク)にとって冷酷とも言える姿勢は、「ゲーム」化しなければ平常心を保てないほどだ。ジュースをやろうと買ってきたら「いらない」とあっさり拒まれ、ハナゲをやんわりと指摘しようとしたら引っ叩かれ、挙句腹を下してしまう有様。だが、この距離感こそが斑目にとって居心地が良かったのも事実なのである。オタクを理解しない冷たさは、そのまんま自分の存在が拒絶され続ける前提にもなっていたわけで、諦めがつくとか言う以前に、好意を寄せることすらおこがましいとでも言おうか、近づき難さが一定の距離を置くことに繋がっていた。
 しかし、春日部が高坂との付き合いを通してゲームやマンガの世界などオタクの上っ面とはいえ、そういう世界に慣れ、実際に触れていく過程で、オタクにもそれなりの理解を示して柔軟な態度を示すようになると、むしろ斑目にとっては居心地が悪くなっていく。32話は、それが如実に表れた一編である。
 オタクと普通に会話できるようになっていた春日部と、意識しまくっている斑目の対比は、ここでも斑目の心中が軸となる。いわばオタク星として宇宙の片隅で燦然と輝き(あるいは異様な存在感を放ち)、春日部のような宇宙の中心たる星々との接触を自ら拒むかのような態度を貫いていたはずなのに、高坂によってさくっと片隅を覗かれたり探査されるようになると、そっちが近づけんなら、こっちからも近づけんじゃねーの? という「ちょっとした希望」が芽生えてきてしまい、彼の恋情をより刺激することになった。帰りの電車で空いた席に座ればと促す斑目の行動は、少し近づいてみた結果であるが、春日部はついに拒絶し、高い壁の存在を改めて思い知る。自分は異性として意識されていない、と。
 そして9巻である。9巻で最初の重点をなすのが51頁、成田山境内で春日部と歩く斑目の2コマである。道に迷った斑目とトイレに行こうとしていた春日部が遭遇し、共に仲間が飲む現場に向かう。その場所を知る春日部が先頭になっているにもかかわらず、この2コマで斑目がまるで先頭を歩いているような錯誤を読み手に抱かせようとする。もちろんその前のコマで斑目の前を歩く春日部は描かれているわけで、まあ単に二人一緒に歩くコマ(次頁の2コマ目)を強調するための・別々のコマに分けて描くための構図かもしれんけど、ここでもまた前2話で展開された春日部の拒絶がやんわりと描写される。トイレ前で春日部を待っていた姿勢こそ強く拒まれなかったものの、その後彼女がまた酔って倒れてしまうことを慮る発言を大丈夫と一蹴してしまう。明らかに倒れて斑目に抱えられた先ほどの場面がなかったことにされてしまう。
 さてしかし変化があるとすれば、春日部の頬が酔いで赤く染まっている点である。斑目は春日部に対するときは大抵照れていることを表す斜線が頬に掛けられていた。14話、32話ともに男としての自分を意識するも、気を遣って買ってきたジュースは貰われず、席に座ってももらえない一方で全く顔色を変えない春日部。そしてまた、9巻51頁で身体を気遣うものの、それ自体がなかったことにされる。だが、この時の彼女の表情がいつもと違うことで、斑目(というかこの場合はほとんど私のことなんだが)は、またしても希望を持ってしまうのである。52頁で斑目の脳裡を巡っただろう妄想の数々はあえて描写されない、じっと彼女の後ろを付いて歩く彼の背中こそ読者が代弁すべき「煩悩」なのである。「でも煩悩は除夜の鐘くらいじゃ消えてくれないしね」「……ヤベ それすげえ実感できるは」
 57頁の初日の出の場面で眠気に耐えられずぐったりした春日部は高坂に支えられていた。その少しはなれたところには、同じようにうなだれ眠そうな斑目がひとりぽつねんと座っている。この構図の切なさときたらもう……
 で、53話「告白」である。「げんしけん」の物語の山場といっても差し支えないだろう回である。「幽明の恋文」を読む春日部に気付く斑目、この時点で読者にもすでに14話が思い出されていよう。斑目と春日部を巡る過去のいろんな出来事がこれを契機に思い出される場面かもしれない(後の斑目の「告白」と春日部の「思い出してたところ」にも繋がっている。読者と登場人物の感情が共鳴した瞬間だ)。彼女が新宿に半分住んでいるという言に、彼女が卒業後は、もう彼女とほとんど会えないだろうという確信がヤケ食いを促し、「チクショウ」という誤魔化しのセリフになる。もう会えないという現実を前にしても彼はジュースを手渡しするところでもう照れることもない。いわば諦念の末の悟り、自分から彼女を拒絶する最初で最後の機会を得てなお彼は彼女に翻弄されてしまう。春日部は斑目の地雷にとんでもないショックを与えた、「こんなふうに斑目がジュース2本買ってきた事 前になかったっけ」
 斑目の頬が一変に染まっていく(まあ、春日部が気付いていないんだから、これも内面の照れの描写なんだろう)。
 しかし彼は堪えた。よく堪えた! 物語的にもここは堪えるべきだ。ていうか私は斑目を抱きしめてやりたい!(いやまあ別に、当然変な意味ではなく)。109頁の斑目「4年間お疲れ様でした」で、110頁、春日部は少し照れてしまうのである。かつて「放火」の件で泣かせてしまったことはあったが、卒業が迫った状況で、感傷を促す発言・彼女の心を動かすことが少しでも出来たことは斑目にとっては意想外であり、きっちりと春日部から卒業できる・諦められる……というか「追い出しコンパ」の回まで読むと開き直れるって感じなんだけど、まあわずかとはいえ斑目の恋愛レベルが上昇した (レベル1がレベル2になった程度だが)祝福の音色をわたしゃ確かに聞いたぞ。
 おめでとう、斑目! ありがとう、「げんしけん」!

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