「方舟」
太田出版
しりあがり寿
「方舟」は止まない雨の果てに訪れる美しい世界の物語である。今回は、思いっきり主観に従った印象を書こう。
私の未来を想像してみる。1年後に転職、2年後に失業、5年後に本を書く、9年後に印税生活、12年後に世界放浪、15年後に晴耕雨読・悠悠自適、17年後に宇宙旅行……段階を踏んで人生を模索すると、信じられないような・でも信じたい輝ける道が目の前に開かれ、ついに20年後の自分を想像すると、夢のような生活に臨めるものだ、それがどんなに悲観的なものであっても当人にとっては魅力なのである。21世紀はかつて未来の代名詞だったが、なんじゃこりゃ? と嘲笑したくなるくらい雑然とあきれるほどにばかを引きずっている。飛躍もくそもない。眼前の目標の達成に邁進しつづけた結果に過ぎない。一方、19世紀の終わりに人々が予想した100年後の世界は、これがなかなか私たちの世界と符合する技術や生活様式になっているのだから驚く。現代人よりも未来を予想し得た、すでに死んだ人々の想像力の源泉は一体なんだろうか。
たとえば、前述と逆に20年後の私を唐突に予想し、そこから今の自分・つまり過去をさかのぼって想像するとなかなか面白い結果が得られる。
20年後の私、まだ生きていたいので生きていることにしよう。漫画も読みつづけていたいし、映画も見まくっていたい。仕事は引退して晴耕雨読、有名無名に関わらず本の一冊でも出せれば上出来だろう……と適当に書くものの、私の場合は自虐質から、本音はここでは書けないような酷い人生を想像してしまうのだが、それは置いといて。19年後に大病わずらって長期入院、18年後に仕事引退、17年後にしょうもない自伝を自費出版(出版社にとっては慈悲出版などと言われて発狂寸前)、15年後に閑職に就く、12年後に仕事で大きな穴あけて若手から侮蔑の対象になる、9年後に交通事故、5年後に転職、2年後に……この辺にくると下手に冗談も書けなくなってくるし、魅力も何もない無味無臭、思いのほか訳わからない結果になる。何故なら、いきなりそんな先の話を想像するにもなんの手掛かりも参考図書もないからだ。2020年代には有人火星探査が行われる可能性があると本で読んだが、それも突然2020年代の宇宙開発史を思いついたわけではない。2003年頃までに宇宙ステーションが完成し、2010年代に月面基地を作ってと、一歩一歩未来を踏みしめているからこそ現実的な可能性ができ得るのだ。
100年後の世界を今度は私たちが考えてみよう。現代との辻褄を合わせようとする必要はない、突拍子もないほどにくだらないことでもいいし、そりゃ出来ないだろって突っ込まれるような世界でもいい。気楽な態度で無責任に・奔放にいろいろなことが言えてしまうだろう。100年後の世界がいかなる世界にしろ、とにかくそこには私たちの希望が詰まっているからだ。推しはかって今の私たちの世界は、100年前の人々の、いやそれ以前の人々全てのと言い替えられる「希望」なのである、死んだ人々の希望に満ちているわけだ。
20年後の私の姿も希望といえる。けれども先に想起した20年後と後に想起した20年後は違ったものである。ともに本人の希望でありながら、この先の20年間に私が歩むだろう人生には隔たりがある。この差こそ、想像力の飛躍である。現実を引きずりながら・ばかを引きずりながら想像するのと、そんなしがらみから逃れた果ての想像力では格段の差があるのだ。さらに100年後の、自分の死んだ後の世界なんて正直知ったこっちゃないが、皮肉にも希望だらけの「輝ける未来」が出来あがってしまったのもそこに一因がある。当人には希望なんてこれっぽっちもないにも関わらず、当人の死後は希望でいっぱいとくれば、では私たちの希望って一体なに? といった具合になる。そこで自分の死を想像してみよう、それも数週間後の。
明日何をしようか。仕事辞めて、豪遊して。それとものんびり過ごすか。活路を探すか。あがきもがくか。ため息つくか。希望はあるか。
はっきり言えば、この世は生きている人間にとって「絶望」だ、根拠はない、公理みたいなものだろう、証明できないが確実にそれに満ちている。「方舟」でも、多くの登場人物が語り続ける。
「雨、やまないね」「……雨があがったらさ……」「雨はやみます」「でも、きっといつか雨はやむ」
雨は降りつづけ水嵩はいよいよ増し、人々は狂い、泣き、故郷に帰って親と酒を汲みながら水の中に溶けていく。絶望に支配された世界でなお希望を唱える連中に劇中の若者は叫ぶ、「おまえらみんなバカか!!」
では逆に、真っ先に数週間後の死を想像し、今の私までさかのぼってみればなにがあらわれるだろうか……その実践がこの作品なのである。
雨は止んだ。人間の希望は、人間が消えてようやく叶えられた。
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