「ハルコイ」
講談社コミックスビーラブ
末次由紀
私は末次由紀について語るべき言葉を持っていない。2005年に発覚した井上雄彦作品などからのトレース・盗作により、それまでに発表した末次氏の全作品の絶版という厳しい対応に賛否あったものの、氏のマンガ家としての活動が潰えたものかと思った。そもそも私は氏の作品を読んだことすらないし、名前さえ知らなかった。書評サイト「Lエルトセヴン7 第2ステージ(http://aboutagirl.seesaa.net/article/72818795.html)」で絶賛されていた新刊「ハルコイ」のレビューも、あの盗作した人、まだマンガ描いてたんだ、というような素っ気ない感想でしかなかったのである。しかし、そこでの絶賛ぶり・収録された四作品への感動の有様が、とりあえず読んでみようという気を起こさせ、書店で購入するに至った。
正直、感動した。前半にたっぷりと伏線を設け、後半・特に終盤に畳み掛けてくるその回収に費やされる山場は、各キャラクターの感情に読者……というより私を引っ張りこむ力にみなぎっていて、効果的な大コマや見開きに、私は一瞬キャラクターと同化してしまった。この物語力を、マンガを再び描ける喜びに満ちていると書くのは容易いだろう。だが、周到に準備された様々なキャラクターの表情や背景を思い起こせば、力作としてではなく、誰にでも薦めうる傑作だと独断してしまう。
「ハルコイ」「指輪の片想い」「美彩食堂」「ななつの約束」の四作品が収められた短編集「ハルコイ」の中で、私が最も感動したのが表題作「ハルコイ」である(ネタバレ注意。ほんとに注意して)。
主人公は50歳の綾子(りょうこ)である。モノローグも彼女によっている。いきなりおばさんがコンビニでマンガ雑誌を立ち読みする学生の背後に立って同じくそれを読む、という傍若無人な登場場面である。「50歳でも春は来る」なんて語るものだから、おばさんの恋物語?と思いきや、すぐに23歳ののどか(のんちゃん)が、つまづいてすっころびながら登場した、恋愛の中心は彼女のほうである。これらの場面で2キャラクターの性格付けが読者に焼き付けられ、物語は、のどかの恋を応援する綾子という構図から始まる。
綾子の世話焼き勘違いがきっかけで知り合った二人である。綾子の一人合点や暴走に困惑していくのどか、という展開がうっすらと見えた。あるいは綾子は亡き娘の影を彼女に見ているのでは……なんてことも考えたが、物語はそうした予想をひとつひとつ潰していくように、一人娘はイギリスに嫁いでしまったこと、今は夫と二人暮しであることが説明される。
前半において動機が不明確な主人公の言動は、確かに単なる世話好きとか、他人の恋話には目がないおばさんらしさと片付けられもするけれども、少しずつ引っかかりを残していく。それを伏線と言うのは大袈裟かもしれないが、ひと月近くも飾ったままだった雛壇をようやく仕舞いはじめた妻(綾子)の姿を見つめる夫の表情に1コマ費やす意味が明確になるラストに、私はとにかく感動しまくりなので、再読して慄然としたものである。まあとにかく、好きな人が出来ても何も動けないのどかに、とにかく行動しなきゃダメだと諭す綾子の姿は実に平凡である。そして綾子に背中を押される形で勇気を得たのどかがリストランテで働く好きな男性にようやく声を掛け、メール交換して仲良くなっていく過程も同様である。
松尾スズキ監督の映画「クワイエットルームにようこそ」(2007年公開)は、精神病棟を舞台にした女性達のこもごもを描いた作品である。主人公は元モデルのしがないライターとはいえ、締め切りや人間関係に疲れ果て睡眠薬に溺れてそこにぶち込まれた、自分は正常だと思っている人間である。実際そのように描写される。おかしいのは周囲の人間と病棟の患者達で、自分は何かの間違いでここに入れられてしまった、早く出してくれ、というわけである。彼女の恋人の風変わりな様子や担当医師のいい加減さ(庵野監督……)に患者の異常行動が、彼女の言動を実に当たり前の・尤もな思索だと思い込ませる作劇が至る所で織り込まれていた。そして、周囲の立ち居振る舞いはそのままに主人公の本当の姿が次第に鮮明に立ち上がっていく展開が興奮を誘う。「ハルコイ」の作劇も、これに近いものである。
平凡な主婦として、不器用な女性を後押しする友達として、そして綾子に頼らずに自立しようとするのどかに何となく寂しさを味わう……普通の言動が立て続けに描かれることで、読者は、綾子は普通のおばさんであるという確信を深めていくだろう、読者層を考慮しても、若い人が思い描きそうなおばさん像からはみ出すことはない。これは、のどかの恋が実ったかに見えた矢先の発見によって決定付けられる。27頁1コマ目から12頁ほど続く展開は、のどかに物語の焦点を移すことで、これまた平凡な物語としての誤解劇であることがあっさりと明かされる。
それもこれも、山場のために描かれた計算づくの平凡さなのである(もちろん、平凡だからつまらないという意味ではない。おばさん視点という新鮮さが、前半の牽引力となっているからだ)。綾子を誤解してひどいことを言ってしまったと後悔するのどかは、綾子の夫と偶然顔をあわせる。戸惑うのどかに、綾子の夫はある事実を告げた――
これが物語の視点を再び綾子に戻すことになる。自然だ。読者の欲求どおりに誤解された綾子の心理が吐露されるくだりに私は素直に感動してしまった。ぽろぽろと泣くおばさんの視点に同化したんだ、「〜しまった」と言いたくなる気を察してほしい。式も挙げずにイギリスに渡ってしまった娘に、せめて着せてあげたかった白いワンピース。のんちゃんに似合いそうとかつて語っていた綾子。そして夫の妻を見つめる表情……これらが想起される中で夜桜を背景とした見開きが目の前に現れた幻は、綾子にとっても読者である私にとっても、確かに感じ取れた笑顔である。近くのものが見えにくいと冒頭で描かれた老眼という現象さえも、遠く(他人)は見えるけど近く(自分)は見えにくい・あるいは遠くにいる娘を思う余り近くに気が付かないという物語に組み込んでいると考えるのは穿ちすぎだろうか。
末次由紀は事件によって多くのファンを失ったかもしれないが、復帰作によって少なくとも一人のファンを得たことは確かだ。
(2007.12.17)
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