「光の海」
小学館 flowersフラワーコミックス
小玉ユキ
人魚シリーズと言えば高橋留美子だけど、小玉ユキの人魚シリーズは伝奇とかとは無縁の、日常の中に普通に暮らす人魚と交流する人々を描いた表題作「光の海」をはじめとする五つの連作である。
本作で扱われる人魚は、もちろん人語を解するものの、イルカを連想させるような造形である。生態は海辺の近くで子供たちだけで集団生活し、大人になると沖に出て異性と交尾をする、という程度の動物としての様式が整えられている。けれども、彼らと人間の交流の中では、当然衝突や憎悪めいたものまであり、そういう微妙な心理が本作に登場するさまざまな人々に影を落としている。表題作「光の海」は、主人公の青年僧侶が、身を寄せている寺の住職の孫の美貌や才能に嫉妬し、さらに孫は美しく若い女性の人魚とも親しく一緒にサーフィンをして楽しんでいる姿に羨んでもいた……といった感じから、青年の葛藤が人魚を媒体として描写される。人魚たちは海の中で暮らしているわけで、人間の生活に深く立ち入ることはない。人間からなんらかの接触を試みなければならない存在であり、人魚が主役になることはない。
そんな装置としての存在も、普通に人間と会話できることによって、彼らも人間と同じ仲間であるという錯誤をもたらす(もちろん生物学的には哺乳類同士)わけだが、長じて人魚は沖に出なければならないという設定により、彼らとはいずれ別れなければならない予感を常にはらんでいる。これが物語に一定の緊張感を与えている。
「波の上の月」は、男の子の人魚たちがたわむれている島にやってきた主人公の女性・さきが、彼の地で教職に就いている親友を訪ねる話である。船に乗って間近で人魚たちを眺めるさきは、群れの中に自分と同じ感じの子を見つける。子供同士で交尾ごっこをしている中にあって、その子だけが真剣な表情で相手を抱いていたからだ。さきは、その子の同性愛的な感情に共感し、近々結婚するという親友への自分の奥底に隠していた思いを打ち明ける決心をする。……沖へ去っていく人魚と、親友との訣別・そこから去っていく自分を重ね合わせた佳品である。あるいは「さよならスパンコール」では、女性の人魚と仲良くなった奈月が好きな先輩を誘って彼女に会わせるものの、先輩が人魚に惚れてしまい、思い悩んでしまうという物語だが、ここでも人魚は、やって来た男性の人魚にあっさりとかっさらわれて沖へ旅立ち、先輩もひどく失恋するという展開である。
そんな別れを常に意識させている本作において、唯一例外なのが「川面のファミリア」である。私が一等好きな話である。
カワイルカならぬ川人魚が登場するこの短編は、小説家の父を持つ小学生・文が主人公である。母は離婚してて、二人暮しだ。面倒見がよく、しっかり者の文が父との帰路で見つけた川から上がった川人魚は、妊娠していた。というか、陣痛で苦しんでいるところだった、何でこんなところで? という疑問が浮かぶ暇もなく二人は彼女を抱えて川へ。人魚の出産に立ち会うという貴重な経験を得ることになる。
川人魚は口が聞けないという設定なのか、聞くことは出来るものの一切話さない。身振り手振りや表情で何事かを訴える。
そんなことがあってから、父が突然釣りを始める。学校から帰宅して夕食の用意をして、そんな毎日にあって、父の帰りがだんだんと遅くなっていく。ある日、文は友達の家で借りた双眼鏡で川岸で寄り添う父とあの時の人魚を目撃してしまうのだった……
小玉ユキの絵はとても優しい描線である。人物と背景に差がなく、全てが溶け合っている。時折背景をぼかすことで人物を際立たせようとする描き方で、線を大事にしている印象が強い。そして静的。動線をはじめとする動きを表す線がほとんどない。そのためか、コマに描かれる人物が落ち着いている。うるさくない。セリフやモノローグが多いのも気にならない。海から飛び跳ねる人魚の絵でも、水滴が飛び散っていく様子や、尾びれの揺れ、体の傾きによって、写真で捉えたかのような一瞬が描かれる。ほんとに綺麗なんだよ。
父と人魚のことを級友にからかわれる文の場面で、静的な描線の長所が生かされる。父に夜どこいっているのかと聞くもはぐらかされて「うそつき」と心中連呼する横長真っ黒なコマの場面の後で、人間と人魚って付き合えるの? みたいな感じで教室で言われる。一瞬、双眼鏡を貸してくれた友人に目をやる文と、近くの席の子と談笑しているその友人。縦4列に詰め込まれたコマ割、先ほどの横長真っ黒のコマが文の置かれた立場にのしかかってくるような感覚。そのまま次頁も級友の囃し立てが続くと、また真っ黒なコマが横一杯に入って、「うそつき」と繋がると、文の怒りが爆発する、「人魚が文のお母さんになるってこともあるかも」「あるわけないじゃん!!」
縦長や横長のコマが多いせいか、紙面の3分の1ほどのスペースでも十分な開放感がある。彼女の後姿を中心に、凍りついたかのように静まり返る印象さえ漂う教室内の描写。もともと静的な描線を、真っ黒なコマとの対比による転調によって冷たくなるほどの静けさを表現する。
文の中で錯綜しているだろう感情は、あえて語られず彼女の自分でもわけがわからない行動によって演出された。人魚に向かって、お父さんと会わないでと思わず言ってしまい、抱えていた人魚の赤ん坊をそのままに家に向かって走ってしまうのだ。赤ん坊の尾ひれから滴る水滴が彼女の疾走感を煽る。
家には父がいて、料理を作っていた。「どうしよう」と泣き崩れる文に、父はその料理を食べさせる、「まずい」。この辺のおかしみも作品の持ち味である。
その後密猟者(陣痛の時に川から出ていたのは彼らから身を隠すためだった)から逃れて人魚と一緒に他の川に行き――という流れがあるわけだが、冬から春への季節感も織り交ぜつつ、最後は、川の字とは言わないが、川をゆったりと下るボートに乗った文と父に、流れるままに身を任せた人魚の姿は、まさに親子そのものである。ラスト、飛び散る水滴のイメージを風に舞う桜に変えたように、文の心境がゆったりと変化していく様子が、綺麗な描線の上で踊っている。
(2007.1.29)
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