「人斬り龍馬」

リイド社 SPコミックス

石川雅之



 坂本龍馬と新撰組が会したと記された確かな資料は、ない。龍馬の妻・おりょうは新選組隊士とすれ違ったことがあると証言を残しているらしい、また大正3年に出版された竜馬の伝記として評価が高い千頭清臣「坂本龍馬」には、会津藩士の巡邏隊と遭遇したという記述があるが、いずれにしろ大河ドラマ「新選組!」のような劇的な邂逅・展開は歴史物のお約束として許されたフィクションみたいなものであり、史実であろうがなかろうが、歴史上の人物が東奔西走縦横に活躍する姿というものは痛快なのである。
 では石川雅之の本作はどうかというと、こともあろうに坂本龍馬を悪役として描いているのである。はっきり言って、ありえない。ありえない上に新選組・見廻組隊士を闇討ちしまくった人斬りという設定となれば、暴挙甚だしい。だがしかし、これが面白く料理されているのである。北辰一刀流の使い手として知られた龍馬が生涯一度も人を斬ったことがない、というのは実は歴史の勝者が記録した虚像なのだ、という発想から飛躍した暗殺者・龍馬の強烈な個性と、彼を追う新選組・見廻組の苛烈な捜索が、記録されることのない暗闘として活写されているのだ。
 いや、これすごいよ。まず龍馬が人を斬る場面が描かれていない。そもそも殺陣がない。隊士を殺害する何者かを探る新選組局長・近藤勇の台詞を通して暗殺者への憎しみが増幅され、犯人が判明した時が寺田屋っていう流れのテンポが神懸っている、ちょっと大袈裟か。短編故に切り詰められる逸話はとことん切り詰め、なおかつ幕末好きを喜ばせるような展開も忘れず、会話劇を中心にしながらも緊迫感を失わない演出・龍馬に追い詰められていく新選組の姿が真に迫っている。そもそも幕末に人斬りと称せられた者の中に天寿を全うしたものはいないと言ってよい。つまりタイトルからして人目を引くこと請け合いなのだが(「新選組!」の影響も昨今はあるのだろうけど)、人斬りと冠が付けられることで龍馬の死が英雄の死として描写されるのではなく、散々人を殺してきた者の末路めいたものになるだろうという予感さえをも含んでいる。
 心憎いのが半次郎(桐野利秋)の使い方だ。龍馬暗殺の黒幕に薩摩説を用いる作品は多々あるが、彼を暗殺に関与させることは稀である(だいたい大久保利通が多いような気がする。まあ半次郎も登場することはあるけど、半次郎実行犯説を強く主張している人の数は見廻組説なんかと比すると圧倒的に少ない)。彼を登場させることにどんなツボがあるのかというと、彼が人斬り半次郎と呼ばれていたことがまずある。彼も暗殺者だったのだ(もっとも、彼が暗殺したとはっきりしているのは赤松小三郎という洋学者だけなんだけど)。彼の登場に「やり申そ」という一言、龍馬保護の下知に動揺する新選組・見廻組、この対照的な表情が、石川雅之のちょいと不器用な筆致にかかると時代劇調に上手く符合し、かっと見開かれた眼がいろいろな意味を持って読者に迫り、ほとんど台詞劇となっている本作の魂になっているとさえ思える。「人斬りに歴史は変えれん」という龍馬の台詞も心得ている。半次郎の挙を暗示していることは言うまでもない。
 さてしかし、本作において坂本・中岡両名の暗殺が誰によるものであるかは具体的に描写されていない。暗殺場面としてはあまりに凄惨な描写だが、いやこれくらいやってくれるとすっきり感動している自分に驚いているんだけど、一太刀で頭をぶった切って、止めに脳天から一撃っていう必殺剣法が龍馬に浴びせられる微塵も同情しない作者の冷酷さに恐れ入った。そして現場に残されていた刀の鞘も忘れずに描かれているのも嬉しい。で、当初この物語は実行犯見廻組説として描かれていると思ったんだけど、再読してちょっと違うかもと思ったのである。まぁね、龍馬暗殺についてはいろいろと説があるので、ここの話はあくまで劇中にばら撒かれたヒントから作者は誰が黒幕で誰が実行犯かと想定してこの作品を描いたのかを妄想した結果ということを承知してほしい。
 注目すべきは中岡の表情である。坂本があんた誰といった顔して「どちらの……」という表情に対し、中岡は驚愕ともとれる眼をしている。坂本が知らず中岡が知っている人物。なんでお前らここがわかった? と言いたげな顔、というのは私の主観に過ぎないが、坂本の居所を掴んだ近藤が「近江屋の土蔵」と言っている事から、二階の母屋に現れた刺客が新選組である可能性は低い、というか、彼らならまず土蔵に向かうから、一階には下僕がいたし、近江屋の家族もいたし、うろうろする浪士連中は目立つよな。当日は雨が上がって地面はぬかるんでいたと推測されていることからも、夜半とはいえ物音しそうだしなー。このへんは描かれてないから関係ないな。で、半次郎はどうかというと、劇中で龍馬と会話している(断定できるほどの描写ではないけど)ことから面識があるし、史実でも半次郎は暗殺の五日前に竜馬と会っている。中岡も半次郎と会ったことあるんだよね。中岡の表情は急の来客にただびっくりしているだけっていうなら見廻組も新選組も十分にありえるし、龍馬も知っていながらあんな顔をしたかもしれないけど、劇中の見廻組隊士・今井信郎が宮川助五郎を釈放して云々と語って龍馬の居所を探ろうと佐々木とともに近藤に告げる。中岡が近江屋を訪ねた理由が宮川助五郎の処遇をどうするか龍馬に相談するためだったという説があり、これを踏まえた上での演出だろう(今井が維新後に龍馬暗殺を自供した事実ももちろん含んでいる。また中岡の顔見知りの犯行とすると、中岡が組織した陸援隊の隊士の可能性もあることになる。実行犯は十津川藩士を名乗っているが、陸援隊には十津川出身者が多くいた。ここから土佐藩の暗躍を唱える説もある)。
 はっきり言うとわからない。いろいろな可能性を凝縮し、龍馬への憎しみを煽っておきながら、半次郎の犯行をほのめかし、近藤にもはっきり言わせず、曖昧なまま幕を閉じる。勝者の歴史という点の他に「人斬り」という点からも幕末を俯瞰した感のあるこの作品は、幾人かの手練を登場させ、誰にでも龍馬暗殺の可能性があったことを示唆しつつ、薩摩犯行説を地味に主張しているように思える。
 さて、今一度龍馬殺害の場面を見ると、鋭い太刀が相当の熟練者によるものであることがわかる。実際の殺害状況も踏まえると、それこそ人斬りの犯行と断じてもいいほどの腕前だ。中岡が十数か所の傷を負いながらもなお二日生きたことを考えると、即死に近い龍馬への一閃がいかに重く強いものであったかがわかり、中岡を斬った者は実戦経験の少ない未熟者の可能性であることをも読めるのである。つまり、優れた剣士・暗殺者ひとりとそれに付き従う数名という図が浮かぶ。暗殺集団・剣豪集団の可能性は低いということである。となると、ますます半次郎が疑わしいということになるが、さて、暗殺当日の半次郎は外出しており、夜五ツ(暗殺実行時刻)に藩邸に帰っているわけで、真実はやっぱり闇の中である。
 坂本・中岡受難から三日後、半次郎は二人の墓を訪れている。

 参考資料 新人物往来社「別冊歴史読本1993年春号 完全検証 龍馬暗殺」1993年
      学研「歴史群像シリーズ56 幕末 剣心伝」1998年

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