福山リョウコ「人の余命で青春するな」1巻
恥を捨てるな
白泉社 花とゆめコミックス
タイトル買いである。
あっ、これ絶対面白い本だっていう直感が働くタイトルってのが誰にでもある。それがホントに面白いこともあるんだから、こうした直感は今も大事にしたいものだ。
さて、福山リョウコの新作にして、1巻で素晴らしいスタートダッシュを決めた本作は、主人公・之依(のえ)が高校の芸能クラスに入学し、そこでの人間模様を描きつつ、やがて大きな役をオーディションで手にして成りあがっていくと同時に、一緒に走る同級生の音士(ねじ)との恋愛も見どころの作品になることが伺える物語だ。1巻だけに、まだまだ序盤にすぎない展開だが、すでに有名な役者として活躍する・アイドルとして活躍する・バラエティでも存在感を放つ・そうしたクライメイトたちに、早速「無名コンビ」と名づけられるところから、二人が成りあがっていく姿が、物語の大きな比重を占めることだろう。もちろん二人の今後の感情の変化も楽しみな部分ではあるけれども、演じることを演じるキャラクターたちの悲喜こもごもが今から楽しみであり、不安でもある。
個人的な話ではあるが、福山リョウコ作品は二度飛びついて二度飽きてしまった過去がある。「悩殺ジャンキー」と「覆面系ノイズ」だ。面白そうだなあと思ったのも最初だけで、キャラクターたちの無駄にドタバタしてると感じてしまう展開についていけずに、早々に読むのを止めてしまっているのである。タイトル買いをしたと思ったら、作者の名前を見て驚いたのが最初の印象だった。
さて、1巻ではそうした不安は今のところない。最初の1ページ、「はい本番 よーい!」「スタート!」から始まるキャラクターの疾走感が、物語とリンクし、1巻最後まで駆け抜けていくからである。
冒頭のページは、ひょっとしたら之依というキャラクターがこれから物語を走るための合図なのかもしれないし、あるいは、この後に描かれるだろう映画の撮影のワンシーンに挑む直前の、とにかく強い決意が背中からも伺える迫力がある構図だ。之依の力強く踏み出しただろう第一歩に煽られたおかっぱ頭(というよりも今はボブというほうがいいのだろう)が照明に照らされる中、勢いを印象付けたまま、それがセーラー服にも伝わって、スクエアの襟が旗のようにぐいっと翻る。カチンコの「カン!」というけたたましくも身が引き締まる快音が響く。この1ページだけで、作品に引き込まれてしまったといっても過言ではないのだ。
本作が設定として優れている点はいくつもあるのだが、タイトルどおり之依は、おそらく長い入院生活をしていたことがうかがえ、実際に余命〇年と宣告されているだろうことが知れる。闘病生活で最近の芸能界も知らず、クラスメイトの有名人も知らないから、之依を通して作品世界の芸能事情を説明される場面も自然である。小さい頃に泣く両親の会話を聞いてしまったらしい場面や、病室から走り回る子どもたちを見詰める場面(もちろん、この後の展開でいくらでもひっくり返すことできる・走っている子どもの一人が之依だったというオチだってあるし)からも、それらが察せられ、之依自身も第1話ラストで「3年後に死ぬらしいから」と宣言し(後でセリフの練習だといって訂正するものの)、読者の予想はタイトルとも連動して、確信に変わっていく。設定だけ見れば切ない系の絶望に近いスタートダッシュを努めて明るく可能性あふれる未来あるものとして振る舞う、之依の悲運に注目してしまいそうになるところを、本作は、恋愛の行方を絡めつつ、二人のバディものとしての高揚感で、一点突破していくのである。
「そこ」から動け、というヒントを敬愛する映画監督から受け、自身も長い黒髪をバッサリと斬り落とすことで、主人公として立ち上がった之依は、自分がやりたいことをシンプルに目指していく。
けれども、本作には一つ、個人的な懸念がある。演技に対する姿勢をどのように扱うか、という点である。第1話で最終オーデイションに進んだ之依は、結果的に監督自身から不合格を言い渡されるが、その演技は、余命によって全て虚しく諦めた者の表情で語ったセリフだった。周囲を圧倒する演技ではあったが、演じるべきキャラクターと感情が相違していることを監督に指摘され、かつ、今の自分自身の姿をも見透かされてしまう。走りだすきっかけとなる挿話だが、キャラクターの心情になりきった演技というものに、私自身が懐疑的だからだ。
映画「ドライブ・マイ・カー」の監督・濱口竜介は、映画「ハッピーアワー」について書いた著書「カメラの前で演じること」の「演技のパラドックス」と題した小節で、大量のサブテキストを用意して、脚本には表れないキャラクターの歴史・人生・性格などを他の脚本家や演者と一緒に詰めていく中、演者はそのキャラクターとしての純度を高め、そのキャラクターを演じることの「責任感」をもたらしていく、と語る。同時にそれは、当然の矛盾を生む。
「彼女は私ではない。しかし、彼女は私でしかない。
果たして、演者は自身の「からだ」が拒むような役柄を演じ得るものだろうか。」
続けて濱口は、この演者とキャラクターの葛藤を「恥」と表現しながら、演者が生来持っている・そしてこれまでの人生によって培われた恥を捨てることは絶対にできないし、恥を捨てた演技は、演者とキャラクターが切り分けられてしまうと危惧する。そのために脚本は「恥」を減じながらも演じられるよう改稿を重ね、
「彼女は私ではない。かつ、彼女は私でしかない」
という不可能とも思える両立を目指すことになる。
つまり、最終オーディションで見せた之依の演技は、恥を抱えたまま、自分自身をキャラクターに乗っけたからこそ生まれた迫力であり、それこそが周囲を驚かせた瞬間でもあったのである。恥とは、之依がこれまで培ってきた人生そのものなのだ。
各キャラクターの感情は複雑に絡み合っている。中には妥協して恥を捨てた結果、成功を得たキャラクターも登場するだろう。テレビやスクリーンからは想像できない演者たちの努力も描かれるだろう。だが、物語は之依というキャラクターが一つ一つ走るということを積み上げていくことがはっきりとしており、一本の軸が私にもはっきりと見える。今後、わちゃわちゃとキャラクターたちは増えていくだろうが、之依の軸は揺るぎようがない。それが読んでいて清々しい。走るということに・先に向かって走るということが、病室から見ていたであろう駆けっこをする子どもたちにつながると、自然と芸能クラスとして「鬼ごっこ」を学校行事としてやりたいという設定にも、秘めたる主人公パワーを感じ、芸能クラスならそういうのもあり得るかも……という微妙なリアリティとフィクションの境目が、読んでいて個人的にスリリングでもある。
1巻の引きでは、ライバルとなるであろうキャラクターたちも紹介され、2巻以降、さらなる全力疾走が期待される。
※参考文献:濱口竜介・ 野原位・高橋知由「カメラの前で演じること」左右社、2015・2020
(2025.1.15)
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