「放課後バックビート90」
青林工藝舎 「向こう町ガール八景」収載
衿沢世衣子
地球に優しくなんか出来ないって昔誰かが言ってた。環境問題への関心なんてたかが知れているとは言わない。けど、他の諸問題も私らの日常生活に以外と絡んでいるもんだから、いざマイクを向けられると小市民然と一人ひとりが真面目に問題を捉えて云々責任ある行動をしたい、と思ってもないことを言ってしまう。それよりも身近な問題のほうが大事だったりしてしまうんだから、人間なんてほんとわがままなんだよな。そのほうが人間らしいっちゃらしいけど。
衿沢世衣子の短編集「向こう町ガール八景」は、わがままな人たちでいっぱいだ。わがままな大人の話だと洒落にならないこともあるが、子供の話だと、まだガキだしバカだしまあいいやと寛大になれたりして、微笑ましいなー懐かしいなーと浅はかな言動にニコニコできたりする。それが「サブリ」のように恋愛をほのめかすものだと面白さつまならさがにじみ出てくるんだけど、そんな異性とのあれこれが全くない女子高生のお話「放課後バックビート90」になると、彼女たちの勝手気ままをそのまんま受け取って肩肘張らずに気楽に読めるんで、結構こちらのほうが好きだったりする。話に筋らしい筋はあるが目立たないし、といって彼女らの奇行を殊更煽る描写でもない。何も起きないってことを「何も起きない」と意識させないほど力が抜けているんだけど、読み終えてしばらくすると、実はかなり計算ずくであることが思い出されて、おーやっぱりいろいろ起きているんだ、それを起きていないようなお話として描いている作家性にますます惚れていくのである。
「放課後バックビート90」は女子高生が授業の一環であるグループ研究で南北問題を考えていくうちに地球規模の問題に目覚めて成長する過程を描いた話である、というのは半分嘘だが、中学高校時代あるいはもう少し前の小学高学年でもいいけど、自分と家と学校と友達が世界の全てだった頃から、実は自分と無関係の場所にも当たり前だけど人がいて悩んだり喜んだりして生きているってことに気付き始める時期である。それはテレビニュースからだったり学校の授業からだったりきっかけはそれぞれだけど、そういう瞬間っていうのは必ずあって、衿沢世衣子作品はそこにも敏感だったりする。デビュー作「カナの夏」は姉の彼氏や姉の崩れた表情で主人公の少女に現実の無様さを突きつけて容赦ない。衿沢氏に限らないけど、世界の広さ複雑さに出会う端緒はだいたいそんなもんだ。現実なんてそんなもんなんだよ、という諦念。
一方、あまり深く物事考えずのんべんだらりんと暮らしている子供たちもいるわけで、読んでる私としては、そちらのほうに共感しやすい。やっぱ気楽だもん。たいしたオチもないから再読しても飽きないし。「放課後バックビート90」はまさにそんな感じなのだ。だからナタデココを切り口にした南北問題の研究結果よりも、その過程でありその後の成果を描いた場面のほうが断然楽しい。
「あー暖とりてえ」からコンビニにわーいと駆け込む彼女たちの姿、この場面だけでも面白い。南北問題といっても、彼女たちにとっては北より南のほうが暖かいという問題のほうが切実なのである。主人公がその問題に当初南北の朝鮮を連想した場面からも、世間へのお気楽さがうかがえる。別に彼女たちをけしからんとは思わないし、かっこいいとも思わない。ここら辺、一歩間違えると、真面目に問題に取り組んでいる学生が嫌味な人物として登場しがちであるが、そういうことはない。彼女たちはひたすら身勝手なだけで、それが許される時期にいい加減にやっているだけ。コンビニで買った肉まんを食べながら下校する場面の「んまーい」という一瞬が人生最大の幸福であるかのような姿も楽しい。
セリフのやり取りや構成の妙なんかではなく、こういう楽しい思い出みたいな場面を切り取って描いて、コマの中に並べる。多分ネーム作りには苦労しているんだろうけど、荒っぽい描線も手伝ってか、そういう作業感というかあざとさよりも適当っぽい作りが先にくる、でも当然きちんと作っているから、話に筋がないみたいだけど芯があるから破綻にまでは至らない。南北問題とか環境問題とか、学生時代に一度は通るだろう世界規模の課題も、衿沢氏の手にかかれば身近な問題に還元されてしまう、いや問題として意識される次元にまで到達しない。たとえ到達したって、「ティッシュ一枚から地球に優しく」という程度のもので、冒頭、鼻水たらしてティッシュ使いまくってたと思しき彼女の「おこがましさ」なんか地震一発で吹き飛んでしまうわけで、やっぱり地球に優しくなんか出来ないって大地震で被害にあった人々を見て浅はかに思う私であった。
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