原作:クワハリ 漫画:出内テツオ
「ふつうの軽音部」1巻第8話
3コマの衝動
ジャンプコミックス
実在のロックの曲を織り交ぜながら、いわゆる陰キャの主人公・鳩野の高校の軽音部での活動を描く「ふつうの軽音部」が楽しい。音楽やらロックやらに疎い私にとっては、読後に改めて検索して聞く実際のロックが二度読みの面白さを促してくれて、むしろ知らないからこその楽しみもあるものだと一人で得心している。もちろん、最初から知っていれば初読の感動をそのまま味わえるのだから、それにはかなわないのだけれども、漫画から知ってしまった者にとっては、そのロックから連想されるのは漫画であり「ふつうの軽音部」の鳩野がひっそりと歌うつもりが全然ひっそり感ではなかったというオチの驚きすぎの顔を含めて、思い出し笑いしてしまうのである。
そんな中でも1巻で出色とも言えるのが、第8話である。andymori、すみません、全然知りませんでした。1話をほぼ使って歌われる「everything is my guitar」を、本作をきっかけにリピートで聞きながら、この曲が何故、この場面で歌われたのかをずっと考えている。
鳩野は高校入学と同時に、貯めたお年玉と親から前借したお金で念願のテレキャスターを買う。マイペースで練習しながらも、鳩野が主人公としてどんなキャラクターなのかはあまり語られない。内気な性格から周りを見回しつつクラスメイトや同じ部活の仲間との距離感を探りつつ、話しかけるタイミングも計りつつ、友達を増やそうと奮闘する。別に説明がなくても構わないだろう、物語が進行するにつれて明かされる過去というものもある。けれども、第8話に鳩野の過去が走馬灯のように描かれる。「evetything ei my guitar」の歌詞とどこか繋がっているかのような錯覚もあり、鳩野の苦悩と解放が、大きな感動となって万雷の拍手で迎えられるのだ。
「everything is my guitar」は約2分半の曲である。曲というと3〜4分くらいを想像する私にとっては短い印象だが、andymoriの楽曲にはもっと短い曲もあり、長さはどうでもよいのだろう。
そのうち前奏が約35秒である。ゆったりとした弾きならしから少しずつテンポを上げていく。1頁、3コマに渡って、この部分が描かれる。スマホから流れる曲をイヤホンに、鳩野は口で曲を口ずさむ。最初の音を「ジャ〜ジャンッ」と言うセリフから、イヤホンから聞こえる曲「チャ〜ッチャ〜ラッ」に併せて弾けないギターの代わりに言葉で演奏する。鳩野の声と曲が同調し始めて、曲の世界に入り込んでいくと、実際には口ずさんでいるだろう曲調は口を閉じ、前奏が鳩野の周囲を取り巻く実際の演奏であるかのように演出される。
鳩野の世界が、「everything is my guitar」というタイトルの紹介によって、3コマ目で一気に広がったのである。
初読では曲を知らなかった私も、この前奏の場面の鳩野の高揚感は理解できた。曲に集中して、回想場面に被さる歌詞が、特別に意味があるようにも思えた。だがここで重要なのは歌詞よりも、当然、鳩野の過去である。
原作となったクワハリの作品もジャンプルーキーで閲覧できる。回想場面は間白を黒く塗りつぶすことで、現実に歌っている場面と明確に区別されているが、出内テツオの作画では、コマ枠を太くすることで、区別している。他の回想場面では原作と同じく間白を黒く塗りつぶしていたコマ割りだったが、ここでは現実と回想が混淆したかのような、かろうじてコマ枠の太さで区別できる、そんな曖昧さが、鳩野の曲の世界にのめりこむ具合を表現している。
最初の一節を歌うと、おそらく離婚の話し合いをしているのだろう居間の両親の声だけを体育座りをして聞いている鳩野の姿が描かれる。「かなしいめをしないで」という歌詞と繋がると考えるのは短絡にすぎるが、ここから現実の鳩野の目が前髪によって隠されて描かれると、歌いながら回想していることがよりはっきりとしてくるだろう。
母親に離婚の理由を詰問する鳩野に、少々困っているかのような漫符で、後ろ姿の母親の表情に焦りのような汗を少し描き入れる。来たくて来たわけでも生まれた地でもなかった大阪にいる理由が明かされ、逆にさばさばした感じの父親との別離もそっけない印象を抱くのは、鳩野の心情を反映した描写だろからだろう。
第6話で先輩のたまきと二人で会話する際に鳩野はロックを聴き始めた理由を語っていた。
「私は父親がそういうのが好きで… それがきっかけであとは自分で色々とあさったり」
両親の離婚後、おそらく母の実家だろう大阪で暮らす鳩野にとって、好きな音楽を聴くことは、ひょっとしたら父親とつながれる唯一の道だったのだろうか……という妄想も膨らむ。そして「あとは」という言葉の重みである。父とは別々に暮らしていることに自ら踏み込んで話すわけではないが、一人で色々な曲を聴きながら好きな音楽を集めて増やしていく、孤独さも浮き彫りになるだろう。
歌詞と回想は、そんな鳩野の孤独感を一層煽っていく。慣れない地で中学に入学あるいは転校した鳩野は、クラスメイトとのカラオケでその声の癖を「キモい」と指摘されて、すっかり歌うことに消極的になってしまった。
部屋の隅でほこりを被っていたのは確かに事実だ。買ったもののすぐに練習を始めずに少し放っておいたギター、そこと歌詞がリンクするのもわかりやすい。
さてしかし、ここで興奮した鳩野の目の輝きはどうだろう、とても素敵ではないか。目を伏せて描かれていた表情が、キモいと言われて泣いて帰ったあの日の夜から幾星霜、歌うことの衝動には逆らえないのだ。鳩野の興奮はそのまま読者である私にも伝播し、なるほど、ここからこの作品の物語は始まるのだという宣言文を読むのである。
長くほこりを被っていたのは、ギターではなく鳩野の歌声であり、音楽への衝動なのだ。幸山厘との対面は厘の計算されたものなのか偶然なのかは不明だが、鳩野にとって……というよりも物語にとって、ひいては読者にとって、魅力的なキャラクターたちの登場に、わくわく感が止まらない楽しみな作品となったのである。
一方、この回想場面に違和感がないでもない。曲を聴きながら読むことが困難なほどに、「everything is my guitar」はボーカルの早口にも聞こえるほどの息継ぎもないかのような歌い方で、前奏終わりから厘登場による歌唱の中断までは、およそ40秒しかない。歌いながら回想しているというお約束を踏まえても、曲のテンポとコマの流れが沿うことはない。テンポが途切れて挟まれる鳩野の回想は、あくまでも別の流れとして読まないと曲を聴きながら読むことができないのである。
こうしたちくはぐな感覚は、曲に合わせて読もうとするからこそ生じることは百も承知であるが、曲に合わせて読みたいのである! けれども、どんな手段を使っても40秒で回想することはできないし、歌うこともできない。何故なら、それが作画の力であり、漫画だからである。
原作のマンガは曲のテンポをある程度意識したスピード感で描く(ページ数の関係もあるだろう)が、漫画では説明を増やして情報量を多くしている。それが曲を聴くことを阻害しているが、だからと言って曲の調子を崩してはいない。聴けば曲の力強さがとてもよくわかるが、そのままでは漫画が負けてしまう。漫画と同等に曲を描く方法が、あえてテンポを崩して漫画としての読解を促している、というのは穿ちすぎだけれども、それくらいこの第8話の歌唱、いや鳩野の演奏!場面は、何度も読みたくなる興奮に満ちているのだ。
今はまだ自信がなくて根拠もないかもしれないけれども、期待しているよ、はとっちの番狂わせ! どうせなら! やろうぜ! 番狂わせ! おもろい大人になってくれ!
(2024.4.29)
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