大町テラス
「一緒にごはんをたべるだけ」1〜2巻
記憶に残るもの
講談社 モーニングKC
雑誌編集者の斎藤レイと料理研究家の澤田タキは、連載する雑誌に載せる料理のためにタキの自宅で実際に作り、食べ、感想を述べあう取材をする様子を和やかに描きつつ、もうすでに惹かれあっている二人は、互いに配偶者がいることを知りながら、好意を隠せず、いつか一線を越えてしまうのではないか、という緊迫感が、料理マンガをただならぬ物語へと変貌させていることに異論はないだろう。
タキ自身が、肉体関係をもってしまえば「地獄行き」と劇中で何回も語る様子を読みながら、ふっと、昔読み聞きした箴言を思い出した。
「If you keep your eyes so fixed on heaven that you never look at the earth, you will stumble into hell.」
「あなたがもし 天国ばかり目をすえて 地上をけっしてみないなら あなたはきっと地獄行き」
もちろん手塚治虫「ブラックジャック」の「U-18は知っていた」の冒頭で引用されたオースティン・オマリー(1858-1932)というアメリカの眼科医で作家の言葉である。誰が和訳したのかは調べてみたが日本の翻訳初出の例が「ブラックジャック」しか見つからなかったため、手塚自身が訳したのかもしれない(正確なところは不明です)。
それはともかく、第1話から仲良く下の名前で呼び合う友達みたいな二人の関係は、冒頭からただならぬ気配があって、15頁目で、あっ、これってセックスの暗喩じゃないかと悟ってしまったのである。劇中でいくら二人が既婚者であり、はっきりと踏み込んだ関係による生活の破綻となる言葉をなかなか言いやしないものの、あるいは誘惑に対していくら抗弁しようが、もうこれは完全に地獄行きのバスに乗っかってるじゃないか、やってないけどやってる関係性そのものじゃないか、という表現に、正直、さっさと死ねよお前らと思う一方で、これからどんな感じでセックスを喩えていくのか、それはそれで読みごたえがあると思ってしまったのである。そりゃ気が合う相手に出会ってしまって興奮してしまうのはわかるが、料理と食を通して二人が交合する様子をそのまま描いてしまう作者の大胆さにも、感服してしまう。
この絶体絶命的な状況をどうひっくり返してやろうかと描きながら考えているんじゃないか邪推しつつ、それでいてこの関係の危うさに一番興奮しているんだろう作者のあとがきを読むと、いっそ清々しいほどに、二人そろって死ねばいいのに、と本気で考えてしまうし、そのように物語が終幕すれば、おおいに拍手喝采するだろう。第1話の包みからはみ出す餃子の具にせよ、その後の揚げてる最中に手が触れあいそうで触れ合わない、指先だけ触れてハッとする、焼き上がりと合わせたセリフは、もはや楽しんでいるようにすら思える。というか、そもそも仕事中だったのかよ……というイチャつき具合に、一応と断りを連れつつも、こいつらのやりそうでやらない感じを何故か読み進めてしまうのである。
というか二人のそれは単なる交尾とでもいえるようなド直球で、暗喩とか何だったんだろうと思えるほどに第2話の買った肉まんいつ食べるかの例えが卑猥すぎて、もうだめだこのマンガ、早く破滅してほしいという欲求が抑えきれなくなってしまった。早くまぐあってしまえというよりも、さっさとバレて死んでほしいのだ。
あるいは1巻143頁の手を労わる場面、そして1巻のラストでいよいよっていうところが、外の豪雨とあいまって、読んでいて何だか劇的に盛り上がってしまうのもまた事実である。死ねばいいのにと思いつつ、好きあっている者同士、早く結ばれるならそれはそれでいいんじゃないかという複雑な感情がないまぜになってしまう。
さてしかし、エクスキューズのように、二人の記憶から呼び起こされる食事にまつわる回想場面などと同時に、レイとタキのそれぞれの配偶者にも問題があるかのように焦点が当てられる。正直、実はめちゃくちゃいい人みたいな感じであればよいものを、2巻でレイの配偶者の不倫がそのまんま描かれてしまうのである。え?マジで?何かレイがタキとくっついてもいい理由をそんなあからさまに設定に盛り込むんだ?と衝撃であった。レイは自分の子どもには手料理を食べさせてほしいと思いつつ、妻は冷凍食品ばかりを子に与える場面を何度も描き、小さな不満が積み重なっているところを描いていながら(レイもそれは承知で結婚しているのだが)、唐突な不倫セックスの描写なのである。ちょっと目を疑った。これはアカンやろ、二人死ねばいいのにが三人、いや浮気相手の同僚も含めて、四人死ねばいいのに。
かと思いきや、1つの袋ラーメンを二人で分けあって食べるタキとその夫の場面の優しい雰囲気はなんなんだろう。訳が分からない。
タキの夫は、そもそも感情をあまり表に出さないキャラクターとして描かれ、タキとの食事でも、美味しいうまいと言わず、その積み重ねがタキにとって不満の種となって大きく育てられてしまっていた。そんな折に自分の料理・取材のための料理とはいえ、美味しい美味しいと食べてくれる相手が現れたのだから、ころっといってしまっても不思議ではないのかもしれない。何気に気が合う二人として描写される挿話も多く、「ビジネスパートナー」と線引きしてもしきれないところで、ある場面を二人は結婚前のカップルですとして読めば、そう読めてもおかしくないほどに錯覚してしまう場面も少なくはない。
気になるのは、タキからレイに対して想うモノローグや過去のレイの言動の記憶・自分自身の記憶にページを割きながら、実際の行動に打って出るのは、レイだという点である。タキの感情を理解しているゆえに、読者はドキドキワクワクギスギスしてしまうのだけれども、レイも自省しているように、傍から見ればレイが一方的にタキを行為に誘っているようにも見られなくはない、いや、実際そのように描写されているように感じる。もちろん餃子にせよ手を水で冷やすにせよ、きっかけはタキからレイに対するアクションである。けれども、それは補助あるいは緊急を要する致し方ない状況として描かれている。対して、レイには考える時間があった。考えて考えた結果、酒の力を借りての抱きつきであったり、セックスレスであることをタキと読者に伝えたうえでの欲求であったり、まるで計算したかのように、レイの想いがタキに向かっていく。これ、タキから無理やりやられましたって訴えたら、余裕でレイが負ける案件だよなぁと性被害裁判エンドもないわけではないのか。胸糞悪いけど。
と思いきや、2巻最後の挿話で、第1話の状況が構図演出からなぞらえられるのである。それまで紆余曲折・気持ちの揺さぶり揺り戻しがありながらも、もう一度原点に立ち返って、「ビジネス」としての付き合いを誓う二人ではあったが、春巻きを揚げている最中に飛び跳ねた油が指にかかって、タキが慌ててレイの手を取って水で冷やす・餃子の具がはみ出した場面と相似させると、第1話では指が触れただけで動揺していたのに、そのまま二人の手が絡み合っていくのである。
気持ちの変化が、この絡み合う場面に凝縮されていた。餃子は具がはみ出して半端になってしまったが、春巻きはしっかりと括られ、具がはみ出すことはないのである。
春巻き真っ黒こげになっちゃうよ?といらぬ感想を抱きながら、どこに駆け出して行ったのか。どういう結末にせよ二人にとっては、二人だけが語り継いでいく色とりどりの美しい天国みたいな記憶になるんだろう。でもそれって、傍から見れば地獄だし、いや多分もう料理とか関係なく地獄だし、とりあえず、いったん未来のことを考えようよ。
「Memory is a crazy woman that hoards colored rags and throws away food.」
記憶とは、色とりどりのぼろ切れをため込み、大切な食べ物はあっさりと投げ捨てる狂った女だ
オースティン・オマリー
参考:https://www.goodreads.com/author/quotes/1798580.Austin_O_Malley
(2025.8.16)
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