「けいおん!」
唯と澪とあずにゃんの国
芳文社 マンガタイムKRコミックス全4巻
かきふらい
かきふらい「けいおん!」について真面目に考えるきっかけは、アニヲタ保守本流と名乗る氏が書いた「けいおん!という病。”全員女子大進学問題”を考える。」(http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100921)がひとつのきっかだった。唯、律、澪、紬の四人が、同じ女子大に行くことについて、まるで日本の若者の危機みたく語る様子は滑稽でしかないが、離別ではなく共に生きていく現象は、なにも「けいおん!」に限った問題ではなく、昨今の青春映画では、むしろスタンダードになりつつあるかもしれないことを、おそらく知らないのだろう。
「けいおん!」と青春映画を繋げてみようと考えたきっかけは、映画「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(監督・脚本:大森立嗣)だった。
最近の若者を描いた映画には、どうしようもない閉塞感がつきまとっている。たぶんそれはどの時代の映画でも扱われているテーマの一部になっていると思うが、「ケンタ〜」の場合は、このどうしようもない感じが極まるまで極められている感があり、どんなに追い詰められてしまっても、寄り添って生きていくしかない若者たちの絶望的な・寄る辺なき人々の足掻きみたいなものが活写されている。もちろん、本当に苦しんでいる若者には映画を見る余裕すらないだろうし、この映画のメッセージは届きっこないんだよな、という諦念もあり、やりきれなさがいつもこびりついて離れない。「けいおん!」もそういう意味では届かないだろう。彼女たちの楽しい日々を読んで癒されたとか面白いと感じても、ホントに感じてほしい人たちには・孤独とかいじめとかで苦しんでいる若者には、届かない。でも、やりきりなさを感じることはない。それはたぶんマンガの長所であり同時に短所にもなる。つまり、マンガ(アニメを含めてもいいか)は理想郷を作りやすいってことだ。そして、それはいとも簡単に破壊することもできてしまう。マンガの持つ虚構性の脆さとでも言おうか。一方、映画は虚構性を現実的な描写によって常に補完されているから、なかなかに強い。なかなか理想郷は出来ないけど、一度できた理想郷は壊れにくい。
今年観た若者を描いた映画を列挙していくと、「ケンタ〜」以外にも、閉塞感が鍵になっていると思われるテーマが含まれているように感じる。「おにいちゃんのハナビ」(監督:国本雅広)が実に典型的である。主人公の太郎は、高校卒業後に自室に引きこもってしまう。白血病が治癒して退院した妹は、そんな兄を励ましながら少しずつ外の世界へと導く天使というわけなんだが、ご多分にもれず、妹は白血病が再発して死んでしまう。
問題は、兄が引きこもった理由である。「孤独だった」、それだけだ。もちろん、父も母も身体の弱い妹のために東京から田舎に引っ越すほど、妹を中心に家族は動き、また兄自身、新しい土地になじめず、高校生活は友達が出来ずに辛い思いをしていたのは間違いない。兄の引きこもりは、そんな兄の気持ちを理解できない親に対する反発であり、兄の気持ちを薄々感づいているからこそ妹は兄のために活動したわけだが(この映画は実話を元にして作られているが、兄が引きこもるという設定は創作であり、時代性を反映した結果だ。同時に、兄がそこから脱け出したときの感動がいっそう強められている効果も狙っているのだろう)。
この兄の閉塞感を突き破る小道具として機能するのが、携帯電話である。今の時代を描くに、欠かすことの出来ない物となってしまったのは、幸か不幸か。
あるいは「ソラニン」(監督:三木孝浩)でもいいだろう。一大決心をした種田は、一度辞めたバイト先に頭を下げて契約社員として再び働き、かつバンド活動も続けようと芽衣子に携帯電話で物語る。五日ほどなんの連絡もよこさずにいた種田の突然の電話に芽衣子は歓喜したのも束の間、種田は向こう側に一足先に飛び立ってしまった。それはまるで、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」で、パトカーにバイクで突っ込んだケンタが、一瞬、壁の向こう側に光を見た、という言葉と重なる。
携帯電話は、芽衣子と種田を最後につないだものだが、その希薄さに芽衣子も種田も気付かなかった。多分、どのキャラクターも気付いてはいない。まるで心が通じ合ったかのような錯覚、錯覚でしかない。ホントに二人の気持ちが通じ合ったと感じるには、生身をぶつけ合うしかない。でも、携帯電話から聞こえる種田の声に、妹の声に、主人公たちは一喜一憂した(ちなみに、種田を演じたのも太郎を演じたのも、高良健吾である)。
「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」は、これらの希薄さに対するカウンターとして位置づけることが出来る。前述のパトカーへの体当たりも含めて、この映画では、身体を傷つけることが、キャラクター同士の強い結びつきを表している。それは、セックスによって代替できるものではなく、ホントに痛みを伴う関係性である(ジュンを演じるのも高良健吾。あんた、映画に出すぎだよ)。あるいは「ヒーローショー」(監督:井筒和幸)。これも若者の閉塞感を捉えていて、そこから抜け出したくてもなかなか抜けられない苦しみを描いていた。友達や知り合うになんとなく付き合ううちに、ずるずると暴力の現場に連れて行かれる。そして、仲間を先導していたつもりのキャラクターでさえも、それよりも大きな力(それを大人といってしまうのは憚られるけど)に翻弄され、ある者は自堕落に自滅し、ある者は怯え、ある者は・主人公は帰るのである。
青春物の基礎としては、どれだけ閉じた世界を描けるのかってのも肝になっているかもしれない。親はほとんど登場しないのが常道だ。社会を知らないキャラクターたちが将来について話し合う図っていうのは、それはそれで甘ちゃんな部分があるし、だからこそ、「この時間がずうっと続けばいいね」みたいな、理想郷に酔いしれる瞬間はある。それは「けいおん!」でもあったわけだ(「ロボコン」(監督・脚本:古厩智之)の主人公の台詞にそんなのがあった。「リンダリンダリンダ」(監督:山下敦弘)でも、文化祭のライブ前夜の高揚感をほとんど台詞なしで描写していた。あの辺のペ・ドゥナの表情は必見。そして、彼女たちを見守る教師が、宿直室でビール片手にかすかに聞こえてくるギターやドラムの音に耳を傾けるシーンもいい。この時間の大切さを教師は知っているんだ。もちろん、「けいおん!」のさわ子先生も知っている)。
親が出てくるとすれば、主人公の親である場合が多い。「けいおん!」も結局、唯の親が少し出てきただけだ(厳密に言えば、台詞だけ登場した他のキャラクターの親もいる)。で、社会という壁(「ケンタ〜」では、安直なくらい、主人公たちの閉じた世界を「壁」で表現していた、この壁を突き破れば、きっと新しい世界が開けるはずだ、という希望(光)を求める)の役割を果たす意味でも、親の設定は重要であるけど、唯の親も理想郷の一員だった、というラブラブ夫婦っぷりだった。また、さわ子先生も壁になり得た存在なんだけど、はじめから一緒にケーキを「いただきます!」する有様で、「けいおん!」世界を取り囲んでいる壁の存在はうやむやになっている。でも、この壁の存在は時間の経過とともに鮮明になっていった。
青春物は離別によって成長を促すというのも一理あるし、卒業は青春の節目として文句のないイベントである。だが、卒業による別れ程度では、今はもう成長の一因にはなりえないし、友達関係がそこで終わってしまうわけではないことも、皆経験上知っている。今、青春映画・もっと広げて若者が主役の映画で成長を描くとなれば、もはや「死」というイベントでしか代替出来ないほどである。「おにいちゃんのハナビ」しかり、「ケンタ〜」「ソラニン」「ヒーローショー」も同様だ。数え上げればきりがない。
しかし、成長とは別れだけではない。携帯電話によって希薄になりがちな関係を、人と人の生身のつながりに重きを置き、団結力によって友達の大切さを実感していく物語もあるのだ。「けいおん!」は、まさにこの系統の作品であり、そのような展開になったのは、必然であるといえる。彼女たち四人は、単なる仲良しグループではないからである。「放課後ティータイム」というバンドのメンバーなのだ。
アニヲタ保守本流氏は「僕の考えた素晴らしい青春物」に「けいおん!」が至らなかったことに激怒していたけど、「ケンタ〜」は、その別離による成長を否定しているのが面白いところだ。ケンタとジュンは施設育ちの幼馴染で、カヨちゃんはジュンがナンパして拾ってきた女の子。この三人の関係は、ケンタが壁の向こう側に行こうともがき、それにひたすら付いていくジュン、ジュンを追いかけるカヨと、どのキャラクターも向かい合っていない。ケンタの言葉として「人間には二種類いる。人生を選べる人間と、選べない人間」みたいなことを言い、それはつまり、自分たちは人生を選べない・だからこそ、選べる人生を求めようと物語の序盤で「脱出」する。でも、逃れられない。可能性があるとすれば、ジュンだった。彼は、ケンタに付いていくか、カヨと一緒になるか、という選択肢が存在した。でも、ラストでジュンが選んだ道は、閉じた世界に戻る(ケンタと一緒に行く)ことだった。別離ではないのだ(カヨは捨てられた感が強い。それでも、映画のラストカットは彼女の力強い表情で締めくくられる)。これを観たときに、「けいおん!」で四人が同じ大学に行くのと一緒だなって直感して、だからこの二つの物語を強引にでも繋げてみようかという発想が生まれたわけなんだが、「けいおん!」の四人が一緒の大学に行く。これは、今日本映画で若者たちがどのように描かれているかを考えれば、極めて真っ当な結末と無理くり考えることが出来る。こういう論調は自分自身嫌いではあるが。
今年ヒットした「告白」でも「悪人」でもいいけど、もはや「死」しか特別な物語上の分岐点になり得ない、と断ずるのは早計だけど、なんかもう、それしかない気がしているのもホントのところで、同じ大学に行くとは結局、一人では社会の中ですぐに孤立してしまうって含意があると思うのは穿ちすぎだけど、偶然にも「けいおん!」は、今の青春映画と同調していたのだ!!!と思い切って言いたい。唯たちが卒業した後、残った梓や憂たちがバンドを組んで、先輩たちに負けず自分たちの理想郷を作って行こうという展開は、今時らしいと言えるのかも知れない。
後輩である梓が登場する以前と以後で「けいおん!」は大きな変化を遂げている。これまでさわ子先生だけだったバンドを客観視する存在(でも先生の視線には、どうしても懐古が混じってしまっていて、今の彼女たちのバンドとしてのきらめきを解説するには物足りない)が、梓の加入により、腕前や音楽性が具体的に解説されていく。序盤の1年生の時は、確かに女子高生のゆるゆるした日常がだらりんと描かれていたといえるだろうが、音楽に真摯な梓の視線が加わったことで、物語は青春物からバンド物に大きく舵を切っていたのである。梓は先輩四人の高校生活最後のライブも解説することで、その役割をきっちりと終え、新たなメンバーとともに、自分たちの国を築くのである。
2巻で、ベースの澪先輩の腕なら学校の外でもバンド組めるでしょと梓は言う。澪は、外バンも良いけどね、と語るも、やっぱりこのメンバーとバンドするのが楽しいんだと思う、と梓に説明した。
澪は、学校の閉じた世界か外の世界かと選択できる立場にいた。「ケンタ〜」で言えば、ジュンの立場である。多分、彼女が唯たちと別れていれば、進学先で新たなメンバーを見つけて、ベースを興じていたことだろうし、あるいは休みの日に唯たちと集まってバンド活動に勤しんだだろう。でもそれは、もはや「放課後ティータイム」ではない。青春物と捉えると、ジュンの選択同様に澪の選択も閉じた世界に引き戻ることになるかもしれない。しかし、「ケンタ〜」で描かれた絶望的な光とは対照的に、「けいおん!」は希望の光に満ちている。さわ子先生は何故母校に戻って教壇をとっているのか? さわ子先生は卒業という形でバンドの消滅に立ち会っていたのである(実際は好きな男子を追いかけて、男子と同じ大学に進学したってオチなんだけど)。学生時代の理想郷というか、楽園とでも言えるか、そんなものはいとも簡単に破壊される。卒業だけでなく突然の転校もあるし、彼氏が出来たでもいい。律に彼氏が出来た疑惑が浮上したときの澪の慌てっぷりを思い出す。澪に焦点を絞ると成長がわかりやすく見えてくるだろう。澪は、バンド活動を通して、仲間との関係を重要視していき、これまでなんだかんだと律に頼っていた・律が頼っているようでいて、澪は、律のその頼ってくる態度に救われていた面もあり、今度は、律を・律だけではなく、メンバーみんなを助けようと同じ大学に行く決心をしたのである。
「放課後ティータイム」は不滅なのだ!!
(2010.10.15)
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