「神のみぞ知るセカイ」16巻

言葉がキャラになるとき

小学館 少年サンデーコミックス

若木民喜


 恋愛ゲーム攻略のプロである主人公の桂木が、悪魔のエルシィとバディとなって現実の女の子をゲームのように攻略していく物語も、これまで攻略した女の子が再登場してから物語の様相を大きく切り替えた。桂木が通う高校の文化祭が大きな山場となるだろう展開の中、悪魔世界の陰謀に巻き込まれた桂木は、女神探しという新たな目的のために、以前攻略した女の子の再攻略に臨むこととなった、そんな16巻目。残り二人となった女神探しも、そのうちの一人に目星をつける。寡黙な図書委員で、本が大好きな少女・栞だ。
 彼女の攻略で面白いのは、彼女の内語がコマの中狭しと溢れる点である。キャラクター同士の掛け合いが基本であるフキダシを、彼女一人だけの言葉であれば四角の枠で囲むなりしたモノローグとして処理できる演出もあるけれども、多くをフキダシで彼女の心の声を語り、物語を進めていく展開が見受けられるのである。実際に声に出す言葉・フギダシとは対照的に異常に多い彼女の内面のフキダシは、それだけ彼女が心の中であれこれと考えているんだよという演出である。
 例えば16巻冒頭において、栞は文化祭で発表するための小説を書こうと15巻から引き続き奮闘するものの、全く書くことが出来ない状態で頭を抱える場面がある。5頁目から19頁目まで続く彼女の長い独り言は、ほとんどがフキダシによる内語で物語を広げ、結局何一つ書き進めることが出来ないオチとなる。ほぼ全てのコマに彼女の言葉が綴られるものの、実際に声に出された言葉は2台詞しかない。
 人と話すことが極度に苦手とする彼女の言動は、傍から見れば何を考えているのかわからない存在であるし、それは桂木にとっても同様だ。彼は栞を攻略するために彼女の内語を外に引っ張り出すのだけれども、栞の感情を刺激した内語の放出ではなく、内語はそのままに彼女の真の言葉(物語上では、桂木に対する好意の明確な意思表示)を引き出す必要がある。マンガとはいえ、ここまで自分の本心を口にしようとしないキャラクターを無理に語らせようとするのは、どこか物語に破綻が生じかねない。そこで小説を書くことにより、桂木への告白を促すわけなのだが、これほどまでに彼女の内面が溢れながらも、「好き」という言葉がなかなか表れないもどかしさもある。恋愛感情を意識しながらも、彼女は筆が進まない現実にベッドで横になってしまう。桂木を主人公にした小説を書こうとすればするほど、彼女にとっての彼の存在が妄想を伴って肥大していく。15巻で桂木はこう語っていた。「(栞が小説を書けないのは)自分のネタに自信がないからだ」
 栞の妄想SF小説は、桂木を模した主人公と自分を模したヒロインが結ばれる物語だった。栞が桂木を好きなのは、それさえ読めば誰の目にも明らかなのだが、栞は彼を好きであるという現実を見据えられない。桂木を変態男と罵り、あんなわけがわからない奴に惹かれる自分の気持ちを整理することが出来ないでいる。桂木が自分をどう思っているのか? それさえわかれば、ネタ(桂木を主人公とした小説)に自信が付くのである、桂木が自分を模したキャラクターに恋をする物語を素直に書けるのだ。だが、桂木にとっては攻略である以上、栞から告白させなければゲームはクリア出来ない。
 フキダシを使った演出が続くこの一連の場面で面白いのが、ネットで桂木について検索する場面である。寝転がって仰向けになり、携帯からネットで桂木桂馬と検索すると、彼とうわさのある・過去に彼に攻略された過去があるアイドル歌手の情報がドバっと携帯から噴出してくるところだ。情報と言う言葉の山を、個々のフキダシの台詞に断片として描き(中には画像検索らしい結果もフキダシに描かれる)、あるいは情報の印象がハートマークなどに象徴された形で栞に降り注ぎ彼女を押しつぶす。彼女にとってフキダシは、情報やら感情やらが詰まった重量感があるのだ。
 内語としてのフキダシの山であったり、人と対面したときに何か言いたいけど言えない状態で「……」というフキダシをいくつも抱えていたり、常に何か言葉を抱えている彼女は、フキダシそのものが重石であるかのように不自由な存在である。回想のような自分を客観視する場面では、四角い枠のモノローグなどのフキダシに囲われない活字で内語が語られることもあるけれども、そうした言葉に対しても、自分で突っ込みを入れてフキダシを抱えてしまうのも内向的がゆえである。  つまり、彼女の言葉を解き放つには、フキダシから抜け出す必要があるということである。
 ここで栞の言葉を整理すると、フキダシの言葉としての内語と、モノローグ(四角囲み内の台詞など)としての内語の二つに大別できる。もちろん他のキャラクターも同様なのだが、彼女の場合は、この相違が告白と言う大事に至って、双方の性質を持つ言葉になるのである。
 本来ならば、彼女の書いた言葉は、16巻冒頭で描かれたように彼女の直筆による文字を絵として見せる手法が正当だろう。書いては破り書いては破る、そんな場面の連続は、彼女のノートがだんだん薄くなっていくことにより察せられた。だが、いざ彼女が自分の物語を書こうとしたとき、普段使うノートではなく、いきなり原稿用紙と真向かうのである。そして、これまでの荒唐無稽な設定でしか綴れなかった自分と桂木との関係を、「私について。」というとても平凡な題名で書き始めると、そこから言葉だけによる栞の内面の物語が始まるのである。
 少年漫画・少女漫画には、ほとんどの活字に振り仮名が付けられている。擬音で用いられる文字や絵としての文字、あるいはフキダシの外の言葉の文字には当然、振り仮名はつかない。絵の一部として機能しているからだ。では、栞の物語はどのように描かれたのか。
 原稿用紙を背景に、振り仮名の付いた活字が並べられる。フキダシでもないし、モノローグでもない、彼女の内面の言葉が、今語られているかのように描かれる。物語的には桂木が栞の小説を読んでいるという設定であるが、読者はこれを栞の言葉として受け入れるだろう。
 そこで描かれている活字は、栞の自意識を少しずつ宿していく。普段ならばフキダシに囲われているいろんな言葉(思い)を、原稿用紙の上に焼き付けていくような感覚。原稿の端から端まで丁寧に書かれた言葉を、あえてコマで分断して表記し、または原稿用紙に実際にはない余白を設けることで、少しずつ言葉を吐き出しているような印象も醸しだす。42頁目から10頁にわたって描かれる栞の言葉は、彼女のモノローグであると同時に客観視を伴った、桂木(あるいは読者)とのダイアローグでもある。
 たどたどしく斜めったり落ち着かないコマの形や配置としての言葉は、次第に落ち着き始め、やがて輪郭を得て立ち上がり、図書館やキャラクターへ成長し、自分の世界を一遍に表現してしまう。フキダシから解放された世界だ。四辺の余白が十分あるにもかかわらず、断ち切りされたかのようにノンブルがないのは、この場面が栞の内面世界であることを演出している。ノンブルがある頁は、桂木が原稿を見ている・栞の言葉が客観視されている外面の世界であると同時に、桂木が文字を読んでいる意識も「描いて」いるのだ。

(2012.4.16)

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