「考える侍」
小学館文庫 山田芳裕傑作集2巻より
山田芳裕
格好良い生き方の追求ではなく、存在そのものの格好良さ・そこにいるだけで遠大な思想を感じさせてしまう迫力ある形態こそが粋ではなかろうか、そういう人間こそが真に尊ぶべき憧憬に値する存在であり、生自体に自然と形容し難い怪物が立ち昇るような、曰く「志」を具現した象徴になるのではなかろうか。事実、そうした人生を送る人物は、見ているだけで心地良い。いかに美麗な衣服を纏ったところで心根まで華やかになるはずもないのに、世にうごめく考えない輩が、吹聴流布された言葉を鵜呑みに志皆無な己の意見を図々しくも吐きつづけ、自らの汚臭に気付かず、塵芥のごとく漂っている。そんな世間の空虚を嘆く私自身さえをも相手にしない存在・生き方を貫く人間が主人公・富嶽十蔵である。生きることに固執するあまり死を軽んじては本末転倒である。かといって、死に様に拘泥するあまり生に頓着しなければ犬死を逃れられない。生死に人生の模様があるわけではない、要はいかに考え続けたかに尽きる。富嶽十蔵が事象の本質を探求した果てに到達し得た姿勢こそがその顕現なのである。
こういう人物になりたいわけではない。無責任を承知で、私はただ、その生き方を眺めたいのである。深く関わるわけでもなく、だからといって死後、「知ってるつもり」のような知ったかぶりの似非教養無価値番組で生前のかの人を知るひとりとして証言したいわけでなく、まして葬式で悲嘆に暮れず、生前、時折会って小話少々飯でも食らって談笑し合い「相変わらず変わった野郎だ」と言われればそれで満足で、たとえその機会を得られずとも己の軟弱な精神に活力を吹き込んでくれる思想・心意気を知ることが出来れば、良い。悲観すれば、生涯そんな奴には実際に出会えまいが、私は虚構の世界でそいつに会ってしまったのだから、とんでもない妄想オタク野郎だと陰口叩かれても知ったこっちゃない。作家の思惑を忖度せずに、ひたすら奴の言動を追って劇中に没入し、せめてこのくらいの矜持はほしいやなと自省しいしい口辺に笑みを刻んで脳に清涼を得る。なんという愉悦でろあろうか、本を読む楽しみはそんなところにもある。なにも知識や情報がほしいわけではないのだ、欲望の代償でもないのだ、ただ観、ただ読むだけで、至福に等しい読後感を得られ、「こいつはすげえや」と心の底からうめきたいのだ。ことあれば「すごい、すごい」という形容詞ばかりうそぶく烏合の「すごい」ではなく、一種慄然の感さえある鬼気溢れんばかりの「凄い」としか言い表せない、まさに凄みに充ちた存在。単純に天才とかなんとかの一言で終わるようなちっぽけな存在でもない、とにかく大きいのだ、いや、巨大なのだ。
そして、殺陣のなんという潔さか。死に接してなお自如とし己を語り考え尽くし、あらゆる刹那を楽しみにしてしまう余裕、懐の深さ、いずれも剣の強さあってこそもたらされた自信かもしれないが、そんな野暮の憶測を突っぱねる、運命をも一笑に付す後姿に感服してしまう。笑殺だ。周囲の理解に感得せず、ただ己ひとりが、俺だけが知っていればよい、世の評価よりも自分自身の信念に忠実であるあまりに敵を作ろうとも感知しない。瓦に伍するを潔しとせず、さりとて名誉にすがりつくでもなく思索を巡らし果てる。傍若無人のようでいて、己のように何かを貫こうとする人物には敬意を表する柔軟性さえ持ち合わせた恰幅の凛々しさ。かっこいいねー、と呟いた。
さてしかし、そんな人間の魅力をまるで理解できないどころか理解しようともせずに世論やら人気やらに迎合して功利丸出しの人間がいるのだから苛々する。功利主義を貫徹しようとするのもひとつの粋だろうが、その主張の裏にある世間を見くだす不遜な視線に気付かない鈍感なばか読者ばかりでないことを連中は知らない。知ったところで苦笑しながら言い訳を吐露するだけで決して聞き入れず、過去の才能を費やすに勤しむだけで自分の思考外の事象には見向きもしない。そこにあるのは利己と排他のみ。発展も成長もありゃしない。読後の清涼感なんて皆無、好奇心も刺激されない、単なる消費物! 記憶にも残らず、その場の欲求を埋めるための氷でしかない。溶けて蒸発しておしまい、そしたら次の欲求を用意するだけ、奴隷と化した読者は羞恥も自尊もなくたかりつづけ、立派な消費者に成り下がる。「消費者」でくくられちまう。こんな奴らを、そして奴らを利する連中も一緒にぶった斬ってくれ、十蔵! と懇願したところで彼は相手にしないだろう、なぜなら、富嶽十蔵は考える侍だからである。こんなところで愚痴ってる暇があったらてめえでぶった斬ってこいよボケナス。うむ、まったくだ、私は私なりのやり方で、私が目指す「志」でもって、あの粋な人物の躍動を、確かにそこにいた、間違いなく存在し、限りなく好奇心を刺激してくれた素晴らしい人間たちの「志」に少しでもこたえようではないか。
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