「かわいいあなた」

一迅社 Yuri-Hime COMICS「かわいいあなた」より

乙ひより



 乙ひよりの短編集「かわいいあなた」の表題作は、いわゆる百合マンガと呼ばれるジャンルの作品だが、そのような区別を必要としない視線が作品のいたるところに見られる佳品である。
 長身でボーイッシュな藤代まりあと「お姫様みたい」な柴崎あかねの物語は、文化祭の演劇で王子役と姫役をそれぞれ演じることになった二人の感情がやさしい描線によって紡がれ、ラストで見事に織り上がる。まりあをモノローグの主として描かれる、女の子として振舞いたい彼女の思いに、西炯子の傑作シリーズ「STAY ああ今年の夏も何もなかったわ」の玉井由美を思い出す読者もいるだろう。男の子に間違えられてしまう容貌、髪を伸ばすことさえ憚るようになったしまい、自分を男の子の中に閉じ込めてしまう彼女の姿は、すんなりまりあと重なる。両作品の違いと言えば、玉井由美を救うのがきれいな衣服が好きな・お世辞にも美人とはいえない女の子で、まりあを救うのはかわいいけど皆からは嫌われ者のあかねであり、前者は最初から恋愛関係に向かい難い雰囲気を描き、後者は当初からそれが目的として描かれる(だからこそ百合マンガなんだけど)。
 惹かれあいそうな二人(それは性別に関係なく)が登場すると、読者はなんらかの期待を抱く。「かわいいあなた」は、表題作とはいえ単行本の真ん中にある、読者はそこにたどり着くまでにいくつかの短編をすでに読んでいるから、その期待は前作の様相によって揺れることになった。結ばれる話、片思いのまま終わる話、ある予感を残して終わる話。これらの物語により、本作はどちらに転がっていくか予測が付かなくなる。
 読者の視線はまりあの言葉を通して、あかねの本心に傾いていく。二人の出会いの場面がそのつかみとなる。高校に上がって早々、スカート姿を「おかまみたい」と笑われ、一人になって泣いてしまったところに「どうしたの」と現れたあかね。まりあが思い出す場面として、コマ枠の外はわかりやすく黒く塗られている。そのベタだけの背景に重ねられる言葉「ああ あなたがかわいいから嫉妬したのね 気にすることないわ」
 次頁ですぐにまりあのモノローグが入るために、この言葉が一体誰のものであるのか一瞬混乱してしまう。図書室で演劇についてあかねと会話をするまりあは、彼女のさりげない一言に赤面、あかねは、まりあのそういう姿が「かわいい」とやさしく語る。ああ、やっぱりあの言葉はあかねのものなんだよな……という思いは、しかし言下にまりあによって否定されてしまう。「かわいくないよ」、と。
 まりあの頑なさは度々描かれる。自分の部屋の調度品をかわいいものに揃えても、鏡に映る自分の姿に愕然とする彼女は、読者をして感情移入を困難にさせていくだろう。まりあの視点で始まった本作は、まりあの卑下する態度によって中盤には、彼女を見守る視点に移っているのだ。この視点こそ、まさしくあかねのものである。けれども、演出は全くといっていいほど揺るがない。まりあの感情が画面に映え、彼女を中心に物語は運ばれる。彼女が見るあかねの姿は、常に「かわいい」ものであり、背景にはキラキラしたものや花みたいなものがふわふわし、最後まで変わることがない。つまり、読者とまりあの距離感(感情移入度)は、彼女自身の感情によって定まっていることになる。
 読者の私が期待する流れは、当然、まりあはいつあかねの気持ちに気付くのか、という一点だ。あるいは、まりあはいつあかねを好きになるだろうか、その決定的瞬間を目撃したい昂揚感と言い換えてもいい。だから彼女の自信のない態度は、私をもやもやした気分にさせ、あかねを後押ししたい気分に変わっていく。そうして訪れた薄闇の中二人っきりになるというシチュエーションは、待ってましたとばかりの期待の場面であり、私にとっても感激してしまう場面なのである。
 まりあにキスをするあかねの場面が秀逸だ。正確にはその前頁の2コマである。演劇のドレスを修繕し終え、まりあに着てみたらと促すと、まりあは私には似合わないと泣いてしまう。「泣いてるまりあはかわいいから」というあかねの台詞が思い出される。彼女にとって最高にかわいらしい瞬間のまりあが目の前にいた。まりあの肩に手を置くあかね、このひとつ前の小さなコマに教室の天井と窓辺の境界が描かれる。あかねがちょっと上を向いたことを意味しているのだ(と考えると個人的に納得できる)。キスをする前に少し呼吸を落ち着かせるかのように天をちょっと仰ぐあかねの姿が描かれるわけではないけど、そんな雰囲気が読み取れた。
 まりあが見たものはいくつか描かれるけれども、あかねが見たものは劇中ほとんど描かれることはない。その数少ない場面が、天井と窓辺の境界なのである。では、劇中であかねが見た、もっとも大きな場面はどこかと言うと、冒頭の回想シーンなのである。おかまみたいと笑われて泣いてしまったまりあの顔、頬をやや染めて涙を一杯に溜めている彼女の表情が最高にかわいらしく描かれているのだ。読者はすでに、あかねがまりあに惹かれた決定的瞬間を目撃しているのである。彼女の唯一のモノローグといっても、その一言が全編にわたって影響を及ぼしていた。キスを終えて赤面するまりあは信じられないといった表情である。あかねは言う、「ずっと好きだって言ってきたでしょう」。あかねがまりあに好意を寄せていることを察している読者には彼女のモノローグなんぞ一言あれば十分だったのである。
 ラストシーンの二人を包むふわふわ背景は、もうあかねだけのものではない。まりあも共有しているかわいい雰囲気なのである。
(2007.10.29)
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