「恋わずらいのエリー」6巻

圧倒的少女漫画ストーリー

講談社 KCデザート

藤もも



 少女漫画を読んでいて時々強く思うことがある。主人公たちキャラクターが自分達はどこにカテゴライズされているかということを、異常に気にしているという点だ。例えば主人公が好きな男の子に告白をする・されて、めでたく付き合うことになった直後のよくある展開として、私たちは恋人であるというカテゴライズの確認作業に物語が費やされ、あれほど紆余曲折を経て賑やかに物語を転がしていた魅力あるキャラクターたちによる饗宴が、いっぺんに恋人同士の狭い世界に物語がはまり込んでしまい、ありがちな展開に堕してしまうのである。恋人だからこそ、やって当たり前という先入観をもとに思い悩むという展開が典型だろう。あるいは主人公の友達として存在するキャラクターが、私たちは親友だよねということにやたらとこだわり思い悩むというような、やはり親友同士という狭い世界に囚われ、周囲がやきもきしつつも結局は仲直りという典型。これらは、お互いがどこに属しているかということを気にしすぎるあまり気を使いすぎたり考えすぎたりした結果、このカテゴライズに属しているならば常識的な言動というあいまいな根拠のもとに、関係性を異常に気にしてしまい、いらぬ誤解を与えたり勘違いによってその関係が瓦解しかねない危うい展開を用意するのが常である。それはそれで物語に起伏を与える上で重要なエピソードではあるし、次の展開へのステップアップとしても機能するだろうが、同じ展開に至ると、自分達はどのような関係なのかということを、あまりにも気を使いすぎているんではないかという気がするのである。
 もちろん少女漫画が現代の十代の少年少女の境遇を反映し、今の子どもたちは、こんな窮屈な関係性に苦労しているのだ等々と安易に言うつもりはない(こういう典型は昔からあったわけだし)。けれども、彼女彼氏の関係になって自分たちは恋人であるということに縛られすぎてしまうと、やはりあれほど面白かったキャラクター性や魅力というものが、にわかに失われてしまうような気がするし、実際にそのような少女漫画をいくつか……いや、むしろ、たくさん読んでいるとも思う。キャラクターの好き嫌いによって作品を読み続けたり、あるいは途中で飽きてしまうということもあるのだけれども、私の場合はそういった展開に陥ってしまうと、主人公たちが最終的に結ばれようが結ばれまいがどうでもよくなって、読み飽きてしまうということがとても多い。藤もも「恋わずらいのエリー」も、同じような危機的状況を迎えていた。
 最新刊となる6巻は、めでたく学校一のイケメンで女の子にモテモテの近江くんと、いよいよ本格的に付き合うことになった主人公の市村恵莉子が、恋人関係というカテゴライズによってお互い気を揉んだり気を使いすぎたりあるいは恋人同士であればやって当たり前だよ、というおなじみの光景が繰り広げられのであるが、実は本作に私が感じている最大の魅力は、彼女が「恋わずらいのエリー」というアカウントでTwitterをやっているという点なのだ。
 現実のTwitterでも同アカンウトで作品世界同様のツイートをしているのだが、それはさておき、エリーのツイートは近江くんを遠くから眺めるだけの恋愛カテゴリのスクールカーストの最下層民として、せめて妄想世界だけでも面白くしようと、「#彼氏いません」というハッシュタグを付けながら、妄想ツイートで彼氏とのラブラブネタを日々投下しているのだ(ここでも、スクールカーストとしての自身のカテゴライズ化が施されているが、主人公の造形はきれいな女の子として描写され、いたずらに卑屈で劣等感にまみれているようにも思えるのだが、この妄想ツイートが全ての雑音を払拭してくれる)。
 ただの惚気ツイートではない妄想は昂じて、彼女は変態とも言えるネタをツイートし続けるのである。彼との生々しささえ漂うそのツイートの数々は、JK喪女だからこそ成立するネタであり、「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」の主人公の智子を彷彿と少しさせよう(さすがにあそこまで露骨な下ネタはないが)。智子の場合は下品さと百合ネタが中心で、作品自体はホントの百合世界に突入しているが、彼氏の汗のにおいに興奮したり性的な印象を与える妄想により、「彼氏いません」というタグが生き生きとツイートを輝かせるのである。
 では、実際に付き合い始めてしまったら、どうなってしまうんだろうか。 4巻で両想いであることを確認しあった二人は、最大のイベント・クリスマスでいよいよキスに至り、これまで妄想していたツイートが次々と実現していく展開にエリーは、 当然のようにキスの先を妄想する機会が増えていくことになる。彼女の妄想は変態的に自他ともに「エロい」と言われる様相を呈する。例えば5巻冒頭、近江くんに家に誘われれば、 「誰もいないオレの家で エロいことしない?」と先走って興奮し、いざ家に着いてみれば、先客にいとこの女の子がいる、というお約束展開で、一緒にゲームをして遊ぶのが正解だったとか、手袋したまま手を繋ぐが、素手を触りたい彼女は「生でしたい」と素手で手を繋ぎたいと思わず言ってしまう、という次第である。彼氏とのイチャイチャを考えて一人遊んでいたエリーは、現実の彼氏が何を求めているのか=エロに違いないという暴走がツイートを洗練させ、「彼氏いません」タグはそのままに色褪せることなく、一層ツイートを積み重ね、妄想より現実がやっぱり好きみたいな安直な展開にならず、変態的発想という魅力を失わずに、近江くんとの関係を深めていくのである。
 さてしかし、問題の6巻である。連載が長期化すれば、なかんずく主人公に彼氏ができたとなれば、当然のように、俗に言う当て馬というキャラクターが登場することになる。5巻の終盤で登場したそのキャラクター要(かなめ)は、実はエリーを恵莉子と知らずにフォローしていた、友達のいないネトゲ少年で他人との距離感が図れず周囲から嫌われ浮いている存在だ。彼の場合、エリーとは真逆で、自分がどこにカテゴライズ化されているかを気にしていない。自分は自分で、嫌なことは嫌と言い、無神経な言動が多く、キャラクターとしてかなり癖の強い描かれ方をしている。本当に現実に居たら嫌われるよな、という設定は強烈で、個人的にもフィクションとは言え、やや苛立ってしまう存在である。
 とはいえ、要は自分の設定に気付いていないわけではない。図書委員としてエリーと図書室で二人黙々と本の整理をしていた。ある時エリーは誤って本を落として転んでしまい足を痛めてしまうと、要はとっさに彼女の足を取って傷があるかどうかを確認しようとする。そこでエリーは素足を見られるという行為をはっきり嫌だと言わなければならない状況に追い込まれてしまう。要に悪気はない、ただ足の具合を見たかっただけだ。けれども彼女の恥ずかしがり嫌がるそぶりを気にも留めず、無神経にスカートをめくり傷を探そうとする。「オレってやっぱ おかしいよね」。その無神経さを彼自身自覚しており、みんなから嫌われる理由も分かってはいた。今風に言えば発達障害とも言えるその設定は、エリーとの出会いによって変化をもたらそうとしていた。もちろん作品として物語としてキャラクターとして、当て馬としてである 。
 これをきっかけに要はエリーに興味を持ち、「オレと 友達になってよ」と意思を伝えるのだ。6巻では、要がぐいぐいとエリーに接近する様子に、彼氏として看過できない近江くんと、エリーの親友である三崎とのエピソードが絡まり合って展開された。面白くない近江くんに対し、要は近江くんの気持ちがてんで理解できないし、三人で遊ぶと言ったら三人でゲームするのかと考えるほどに、二人がどのような関係なのかを想像しない。一方の三崎とは、近江くんが晴れて彼氏になったことを伝えられなかったことに腹を立て、エリーと関係がぎくしゃくしてしまう。テンポよくこれらのエピソードは消化されるのだけれども、要の言動が6巻終盤になって彼自身理解できず狂ってしまう瞬間が描かれる。自分の気持ちすら想像できない要のキャラクター性は、今後、エリーと近江くんとの関係にどのように切り込んでいくのか気になるわけだけれども、この巻の焦点はそこではない。
 あらためて、「友達になってよ」である。
 要はカテゴライズに関心がなかったために、この発言は意想外だった。他人との関係性に興味がないのだから。だが、正反対の性格設定を施したエリーと要に、物語は共通する設定を一つ与えたのである。スクールカーストの最下層民という設定だ。
 エリーはカーストの頂に君臨する近江くんと付き合いながらも、彼女自身は最下層民としての意識を捨ててはいなかった。友達もいなかったし存在感も薄く、かつては、誰からも見えない平凡以下の自分を「透明人間」と自己評価するほどだった。
 思い出そう。このセリフを劇中で最初に行ったのは誰か? そう、三崎なのだ。
 彼女は近江くんの妄想ツイートに励みながら、実は冷めた性格で面倒臭がり屋の彼との交流に変態的愛おしさを感じる一方で、三崎から唐突に友達になってくださいと告げられるのである。
 この作品に限らないのだが、特に本作では、関係性を設定するために、このような宣言が重要となっている。いつの間にか友達になっている、という展開ではなく、宣言することで、物語的に「友達」というカテゴリーにキャラクターは括られるのである。恋人がその思いを告げることは物語として必要な盛り上がり要素でありながら、この友達宣言には、どんな盛り上がり要素があるのか。
 エリー、三崎、要。近江くん一人のイケイケな存在に引っ張られて目立たないが、三人とも友達がいなくて周囲から浮いていた。透明な存在感のエリー、クラスメイトから嫌われていた三崎、他人に無関心な要。近江くんとの関係が要の存在によって揺るぎ始めた6巻、たとえ当て馬であろうと、一方で私は、彼が人の気持ちを理解できるカッコいい青年に成長するだろうと期待もしている。「答えを出すことだけが全てじゃないね」、現実じゃありえないけど、ありえそうな感覚、理屈ではない感覚がこのマンガには備わっている。数多ある恋の物語に変態・変わり者たちの妄想という切り口でキャラクターたちの成長を描く「恋わずらいのエリー」には、この曲を送ろう!! MOSHIMO「圧倒的少女漫画ストーリー」!!

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