「国立博物館物語」
小学館ビックコミックスより全3巻
作者 岡崎二郎
人工知能「スーパーE」というコンピューターの中で生物の進化を完璧に再現した大事業に協力する博物館の研究員・森高弥生を中心に展開される様々な知識の物語は、まず、面白い。うんちくが楽しい。わかりやすい説明に気取らない絵と簡潔な小話に何度も読んでしまいます。スーパーEの作った仮想現実・白亜紀の恐竜時代を実験室に観察される生物の進化や生態などを現実の学問に役立てようという試み、そしてその仮想現実をただひとり探検できる体質を備えた主人公・弥生を案内人に読者を壮大な思考実験にまき込んでしまう確かな資料の数々に私は震撼します。といいながら、実は私は、この作品の土台となっている利己的遺伝子説が嫌いです。スーパーEの仮想世界もこれを基礎にプログラムされていますので、楽しさの裏側にいつも私は不信感を抱いて読んでいました。
私がこうなったのも宇宙論に興味を持ったのがきっかけでした。宇宙は何故出来たか? どうやって出来たか? そういう存在の根本的な疑問を物理学量子力学の分野で理論的に説明しようとするいろいろな宇宙論について結構な本を読みました。そういう本に限ったことではありませんが、ある論説はだいたい著者のつじつま合わせになることが多くて一冊読んだだけでは到底理解できません。そこでいくつか読み合わせるのですが、著者の立場上どうしても著者の主観が入ってしまうので、なかなか客観的な宇宙論の本は少ないのです。そんな中で私が一番惹かれたのが「人間原理宇宙論」でした。一言で言えば、宇宙は人間が作った、という説です。つまり、今のところもっともらい宇宙論である「ビックバン宇宙論」とその系統にある「インフレーション宇宙論」とかなんとかいろいろ複雑ですが、そうした理論はまず、観測よりも先に存在しています、で、後に観測結果から理論の確かさが証明されますけど、これがそもそもいけないと感じました、つまり都合が良過ぎるのです。自分の理論の正しさを証明しようと観測されるために生じる観測という客観的な行為自体が主観的になりはしないか・・・不都合な観測結果に目を閉じてしまうのではないか・・・要は単なるつじつま合わせ、人間の考えた理論にこの宇宙の構造を無理やり当てはめようとしているのではないか・・・そんな私の素朴な思いの通じた人間原理宇宙論を知って、私の宇宙論熱は急速に冷めたのです。
この作品の舞台となる博物館は化石の調査発掘を主務とする古生物学の世界です。そこで必要なのは理論よりもやはり発掘です。実際に掘り出された化石から初めて理論がうまれるという計算できない学問だと思うのです。ところが、コンピューターです。おまけに遺伝子というコンピューターの仕事に相応しい代物まで登場して理論が先行しはじめています。否定はしませんが生理的に受け付けませんので、特に利己的遺伝子という発想は嫌悪気味です。それでも読めたのは私に古生物学等の専門知識がまるでなく、仮想世界に登場する恐竜と化石から実在したと思われる恐竜との区別がよくわからなくなって、私自身が仮想世界・つまりこの作品世界を知らず知らず探検していたからなのです。
また、この作品の優れた点を紹介しましょう。勉強にならない遺伝子の本やテレビ番組はいくつもあるわけですが、どれにも共通した問題とは、遺伝子・進化の説明の仕方です。自分の遺伝子を残すことを最大の目的とする世界を席捲した「利己的な遺伝子」説は、多方面で擬人化されて説明されています、わかりやすい解説には役立ちますが、反面大きな誤解も与えかねません。まるで遺伝子が動物を操っているような印象さえ与えかねないのです。挙句の果てに人間は遺伝子の乗り物、という極論まで言い出されては呆れてしまいます。よく使われるたとえに「川で溺れている自分の子供と他人の子供のどちらを助けるか云々」がありますが、どちらを助けるにしても問題になるのは遺伝子ではなく行動学なのです。この作品でも「オオヨシキリの父性愛」で利己的遺伝子を力説する弥生が描かれます。カッコウの托卵から動物たちの生存競争を学ぶわけですが、後にその説では説明できない現象を観察して弥生は混乱してしまいます、ここが巧いですね。「何にでも例外はあるもんだよ」と知識情報ばかりが先行して野外観察を怠る弥生を先生は叱ります、「自然は人間が体系づける以上に、多様で複雑怪奇なのだよ」と説得力のあるセリフです。またクローン技術を扱った「クローン競走馬」の巻でも、固体は遺伝子によって作られるのではなく環境によって作られる、と考えてみれば至極当然のことでありながら、目新しさだけに引きずられて物事の本質をついついないがしろにしてしまう私たちの貧しい精神を手厳しく非難してくれます。
こうした積み重ねによって利己的遺伝子を全面に出しながら、その問題点をあぶりだしていき、スーパーEの世界でも恐竜人類を登場させながら自らの文明によって衰退の予感を残しています。結局、遺伝子にこだわり、遺伝子についてわかったつもりでいながら遺伝子に縛られ逃れられない。「純血」の巻で言われる言葉「純血の価値とは、人間にしか意味がないものなんだろうね」は、そのまま純血を遺伝子と読み替えてもいいと思います。
そして利己的遺伝子に対する訣別が最終話「人類の行方」です。ここで紹介される未来の地球の姿の一例は進化の意味をはっきりと伝えてくれます。まるで人間が進化の最終形態のような扱い方をされやすい進化・遺伝子の話ではなく、人間も進化のひとつの過程に過ぎないという冷静な感覚と、人間が存在した意味を問い直す発想に救われました。読み始めた頃の不信感はとうに消え去っていて、宇宙空間をあてどなく漂いながら確たる信念を抱いて飛び続ける人類の遺産「心」に拍手を送ります。そして発掘場面で最後を締めるのも良いですね。
(私見。付け焼刃の知識ですが、勉強は楽しいねー。というわけで、遺伝子ですが、最大の疑問がなんで生物は多細胞生物になったのかな、なんて思います。単細胞生物ってほんとに単純だけど、自分の遺伝子だけを大量に残せるもっとも優れた形だと思うし、なんだか「利己的な遺伝子」説って矛盾しないか? 人間至上主義の匂いがするのもこの説を嫌う理由だけどね。多細胞生物になったことについて解説している文章を読んだけど、結局環境の影響かなと素朴に思う一方、遺伝子は単に暴走しているだけじゃないか、とも思うようになりました。進化って決していいことばかりじゃないんですから。進化論の面白い説に「ウイルス説」があります、ウイルスは遺伝子を操作しますからね。たとえば、全人類がエイズウイルスに感染したとしたら、多分絶滅はしないだろうけど、短命になるでしょう。それにともなって生活様式とかいろいろ変化するだろうし、人間の体質とかも変わるかもしれないけど、これも進化の一つの形になります。要するに、一筋縄ではいかないってことです。自然界も人間社会も複雑怪奇ですな。)
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