古見さんの言葉

オダトモヒト「古見さんは、コミュ症です」3巻

小学館 少年サンデーコミックス



 この作品を読んでいると、時折、マンガにおいて言葉がいかに重要なのかを強く感じることがある。
 コミュニケーション能力に極端な欠陥を抱える古見さん・つまりコミュ症と俗に言われる彼女を中心に、すべてが平凡な只野くんを狂言回しとして物語は進行する。あがり症の上理さん、ストーカーするほど恋に病む病ならぬ山井さんなどなどキャラクターの名前から想起される設定をそれぞれに用意し、極端な性格付けを施したうえで、古見さんの友達作りが描かれる。只野くんとのラブコメ要素を含みつつ、作品はとても賑やかな世界でコメディとして表現される。只野くんが平凡さを活かした脇役キャラとして世界を俯瞰した解説は小気味よい。だが、古見さんと他のキャラとの関係に焦点を絞ると、世界は途端に言葉によって閉塞する。
 原因は古見さんの描き方に依っていた。
 人と話すことに苦手意識が高じた結果、彼女の意思疎通は基本的に筆談となる。しゃべろうとしても言葉が出てこない様は、世界から対話を拒絶されているといえば大げさだが、何を考えているのかが、ほとんどわからない状態として描かれる。そのために作品では、古見さんの考えていることをナレーションで解説することになった。
 けれども物語の当初、只野くんが古見さんの設定を発見するまでのわずかな期間とはいえ、読者はナレーションのない古見さんを眺める展開が続いていた。その時の彼女は、「……」と何か言いたげのまま、意味あり気に人を凝視し、美貌ゆえの近づき難さから孤高な存在のように・高嶺の花としての雰囲気があった。だが、只野くんとの筆談による対話によって、彼女の本心を知るところとなると、実のところ彼女は、話したくても声が出ない極端なコミュニケーション不全を患っていたことがコメディとして指摘されたわけだ。
 声が出ないからといっても、彼女の考えが全く読めないわけではない。マンガには内語もあれば擬音もあるし感情を表現する記号もたくさんある。実際、彼女はただならぬ事態に陥っているかのようなおどろおどろしい背景を背負って「ドドド」と周囲に聞こえんばかりの迫力を響かせた。だが、擬音の正体はすぐに心音であることが説明される。只野くんが迫力に気圧されたこと自体が、冒頭では古見さんの不器用さを示す一挿話として、演出されたのである。
 さてここで彼女から告白されたコミュ症による緊張から「ドドド」が心音を示す記号であり、大仰な表現がまた一層おかしみを増すわけだけれども、「心音」という解説文が次の場面でまた加えられる。
 物語の解説役として只野くんは彼女をフォローする存在なのだけれども、他のキャラクターとの橋渡し役でもあり、筆談ができない状況下で彼は通訳として機能する。彼には内語もあれば記号による感情表現もある。だからナレーションを必要としない。彼の心情はすべて内語によって説明されるからだ。だが、古見さんは内語すら描写されない。読者にとっても、彼女の言葉はコミュ症として徹底的に、その不全をコメディタッチで描かれ、只野くんと同じ状況下で彼女の内語を代弁しようとするだろう。
 さてしかし、この作品はそうした読者の楽しみの一つを容易に奪う。
 一例として石で固まったようにショックで身動きの取れない古見さんを描き、石像のように実際に彼女を描くも、その解説「そして古見さんは石になった」を付け加える。
 やがてこのような過剰と思える説明は、古見さんだけでなく、他のキャラクターにも加えられる。今、何をしているのか。時には、フキダシで言ったセリフと同じ言葉をナレーションで被せて説明する場面さえある。
 3巻においても、その傾向は変わらない……どころか、ますます説明が加えられる。8頁目の解説は、もはや読者の対象年齢を相当低く見積もっているんじゃないかと疑ってしまうほどだった。「かみ」を「紙」と「髪」、「かぜ」を「風邪」と「風」と勘違いした会話を反省する古見さんが描かれ解説される。または27頁、携帯を持って意を決して誰かに電話しようと試みる古見さんは、一目でそれとわかる会話を詳細にシミュレートしたノートを広げる。もちろん「会話シミュレーションノート」という説明文付きである。だが彼女は電話を掛けることができず、ベッドにうつぶせのまま項垂れてしまうと、「やっぱり通話ボタンが押せない古見さん」という描写から理解できる説明文が被さる。その後、只野くんと電話をするわけだが発信音に驚いて思わず電話を切ってしまう、「プッ」という擬音で。だがそこにも「切っちゃう古見さん」という説明が付く。
 同じことを二度言っているような感覚がずっと続く。古見さんだけでなく、他のキャラクターもこの傾向で描かれ、彼らの内語は、過剰に、擬音や記号に言葉と多方面から強く訴えることが、この作品の特徴となっている。個人的には、どうにもこうにも馴染むことができないのだが、もはやここまでくると、この過剰さはコントの突っ込みのように作品のテンポとなってしまうのである。
 電話で友達とプールに行く約束を取り付けた古見さんは、携帯を持って見つめる2コマのあとで、携帯をたたむ1コマと、「……」だけの何か言いたげなコマが計3コマある。33頁である。時計を見る限り、時間は経過していない、ただカーテンが風で揺れているだけであるが、この一瞬を、とてつもなく長く味わっている古見さんを読者は感じるのである。「喜んでいる」とか「嬉しい」とか、読者とのコミュ不全を来しているかのような余計な説明文が、ここぞという場面ではないのだ。
3巻33頁
 コマの時間の感覚は読者に委ねられているものだが、言葉が加わると、その感覚は鈍くなってしまい、制御されることさえある。セリフやナレーションを読み終われば、次のコマに目を移しがちだからだ。だが、私はこの言葉の一切ないコマをじっと眺めていたのである。もちろん、文字を読むという行為がない分、長く感じただけなのかもしれないが、もしそうだとしたら、その時間間隔こそが古見さんと同じ感覚であり、古見さんと時間を共有した瞬間となるだろう。けれども、現実の時間経過は時計の針が全く動かない秒単位でしかない。次頁で携帯を胸にギュッと抱きしめる古見さんの喜びは、説明書きがないだけに、読者にとっても古見さんにとっても特別な、ここだけの一体感が生じるのだ。
 コントや漫才のような突っ込みによる過剰な説明の場面と、言葉のない感情が溢れた場面を交互に描くことで、古見さんと読者との距離感が制御されているのだ。

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