「神戸在住」第10巻
講談社アフタヌーンKC
木村紺
1話の表紙より
連載は二年近く前に終わっていた。「神戸在住」の最終巻は一体いつになるのだろうかともやもやしながら読む新連載の「巨娘」を心から楽しむことも出来なかったけれど、このほどようやくまとまり完結に至った10巻を読んで、安堵した。物語が終わってしまう悲しみよりも、いつか終わってしまう物語とどう向き合っていくのか、大切なのはそこなんだと気付かされたような気分である。
長い連載の中で、物語は少しずつ変化していったように見える。いや実際に大きく変化しただろう。阪神・淡路大震災を主題としたいくつかの挿話も、物語の時間が動き始め、主人公・桂が成長し始めるようになると、今現在の神戸の町並みが描かれるようになる。1巻で地震に怯えていた鈴木タカ美が、これほど弾けたキャラクターになろうとは思わなかったし、友達との交流に話の軸が移っていくと、神戸という舞台は後退していく。ついには桂自身の問題(就職・恋愛・人生……)に重心が置かれ、物語は彼女のものとなっていった。
もちろんそれは私の勝手な思い込みに過ぎない。物語は最初から桂のモノローグを中心とし、神戸を、家族を、友達を、周りの人々を、桂が客観的に語るという様式が、この作品の基調だった。コマの中の言葉が、客観性を得るためにコマ枠の外に描かれるようになるのも必然だったろう。しかも手描きである。癖のある字体は、コマとコマを結びつけ、桂の内面の声として物語全体を外側から語る力となっていた。コマの中の活字としてのモノローグと、コマ枠の外の手描きのモノローグ、桂の二面性とも言える言葉、前者が物語の内側からの言葉で、後者が外側からの言葉と文字通り分けてもいい。作品全体が彼女の思索の中に置かれていた。
だが、内側の言葉は徐々に後退していった。全く使われなくなったわけではないが、セリフにより重きが置かれるようになり、友達との他愛もない会話の中に日常の風景が見出されていく。卒業が間近になってくると、周囲の色合いは当然のようにその後の人生を決めかねない事態に緊迫してくる。あわせて先が決まらない桂自身の焦慮が作品にもにじんでくる。かつて、「ずっと一緒に遊んでいられるといいのになあ」(2巻)と、暢気に思っていた彼女の中に出てくる就職という問題は、同じように物語に癒しとか息抜きとか(桂に萌える人もいるの? 帆津ならわかる、あ、友田さんも。友田さんだけは「さん」付け)を求めていただろう読者にとっても、物語の終息を予感させる焦慮になった。
時間軸が動き始めたことによる避けられない事態がもうひとつあった。日和の死である。7巻で彼の死は桂によって幾度も反芻されたけど、悲しみが癒されることはなかった。その時ばかりは手描きのモノローグはなくなる(つまり自分を客観視する視点が失われる)。だが7巻の感想で書いたとおり、活字だけになったモノローグはかえって手描きに潜んでいた温もりをまったき消し去ってしまう。10巻収載の「挿話・「日和洋次の視点」」がわかりやすいだろう。
この「挿話」で語られる日和は、副題どおり彼の視点からの物語でありながら、当の日和本人をも「日和」と呼称し、語り手は作者に帰属している。彼自身が自分を「日和」と言っていると思われる描写もあるものの、桂のモノローグとは違い、コマの中あるいは外の白抜き文字による活字は、7巻と同じ構図のために死の印象に彩られている。だが、彼に永遠の安らぎを与えられたきっかけが、桂の姿であるという展開に、これから死んでいくにもかかわらず、どういうわけか希望を感じてしまう。彼の死によってもたらされた桂の大きな動揺とそこからのゆるやかな回復の物語が、日和の温和な表情で締めくくられる。これは、作品前半の中心だった震災を巡る物語を、後半に日和を巡る物語に置き換えた結果だろう。震災を体験していない桂にとって、日和の死は、個人的な震災だったわけだ。物語の軸は一つもぶれていなかったのである。
震災による死から始まり、死にまつわる物語は最後まで貫かれた。「神戸在住」が神戸でなくてはならなかったのも道理である。みんながみんな語らないけれども、後ろに死を背負っている。後景に退いたとはいえ、神戸の町並みそのものが抱えている死は、確かに連載の長期化によって薄れはしたものの、消えてなくなったわけではないし、避けることも出来ない。それは桂にとっての祖母の死・日和の死であり、鈴木タカ美にとっての友人の自殺でもあったのである。
89話は、どれほど親しくなろうとも苗字で呼び合っていた桂と鈴木タカ美が、おそらく生涯の友人になるだろうことを予期させる挿話である。
高校時代、仲の良かった四人グループの一人が突然自殺した。何故死んだのか今でもわからない。タカ美はその子を「自分の話せえへん子やったから」と続けて語った。私には、その自殺した子が桂の高校時代と重なって見えてしまった。桂も仲の良い四人グループの一人だった。高橋、椿、羽生、そして桂。四人の挿話も何度か描かれているが、とりわけ羽生に感情を吐露しがちな桂の塞ぎこんだ日々は、実際に脆いもののように思えた。タカ美が知る由もない桂の高校時代と、羽生が知る由もない桂の大学時代。羽生への手紙という形式で描かれた最終話で、桂がその二人を合わせようというのも、上手く説明できないけど得心した。人生のどん底に澱んでいるかのような日々を救い上げてくれた羽生とタカ美は、桂にとって「絶対に外せない」のだ。
最終話に至り、外側の言葉だった手描きのモノローグが、手紙という形でコマの中に入り込んだ。大学生活での日々を振り返りつつ就職先のこと、今まで出会った人たちとのことが回想されることで、桂というキャラクターの内側に血肉として入り込んでいく言葉達が手紙の文面からうかがえる。過去を人生の一部として見据えることが出来るほど彼女は成長したのである。身近な死を経験し、苦悶の果てに得た多くの友人達、中には本や音楽もある。冬の海岸で、まるで人生を悟ったかのような表情で泰然としていた友田の立ち姿が、桂のその後の姿として想起できる。卒業後に結婚する友人、同級生の椿の結婚と出産、隣家の幼子との交流、日和との日々、喫茶店で聞く音楽、父との外食、祖母との思い出、そして死。これらをひっくるめて糧とした桂の体験は「神戸在住」という作品としていつでも読める形に仕上がっている。読むも読まないも自由だ。ただ読んだのであれば、何かしらの感想を周りの人たちに伝えて欲しい、ブログ等で書いてもいい。一言、「神戸在住」読んだよ、と。最後の挿話「まためぐる朝」の表紙に描かれた本のタイトル「独りだけのウィルダーネス」が極めて象徴的である。
「私の小屋に鍵は下ろさない。
ウイルダーネスに建つ小屋は避難の場として必要とするものがいつでも使えるようにオープンであるべきというのが私の考えだからだ。
この小屋の使用料として要求するものはさして多くない。
すなわち道具類を使用する際は私がそうしたように大切に扱っていただきたいということ。
ここを立ち去る時には訪れた時と同じ状態にしていくこと。
この二つを守っていただければあなたは使用料を全額支払ったことになる。」
(本書を紹介した
四角いドームハウス:ワンダー・デバイス:今週の一冊:独りだけのウィルダーネスより孫引きした。私は未読)
最終話の表紙より
桂は背を向けて家に帰る姿がよく描かれていた。人生のある日を切り取って読者に垣間見せ、また去っていく。彼女の日常の背後には多くの出来事が、それこそ普通の人々同様に詰まっているけれども、そういったものを感じさせない潔さみたいなものがあった。巻数を重ねるにつれて彼女の後景が明るみになっていくが、それでも日々を暮らさなければならないし、躓くたびに泣いてはいられない。羽生やタカ美や多くの人々に支えられていた彼女がラストで読者に正面を向いて手を振りながら二人の幼子を見送る姿に、次は私が身近な人の支えになろう、という強くささやかな意志を感じた。
「神戸在住」は決して自己主張しない。厳しさと優しさと、ちょっとしたユーモアがエッセンスされた私の人生の糧である。
(2008.2.11)