「神戸在住」第7巻
講談社アフタヌーンKC
木村紺
登場人物の多くが学生の中、それ以外の人物として際立つ存在だった日和洋二の死が本巻の読み所である。
飼い猫の死、祖母の死、また震災で亡くなった人を扱って描かれてきた人の死と残された人々の物語が主人公を直撃し、真っ黒な画面が、これまで白さによる美しさを基調とした本作品を陰鬱な世界に引き込んでいる。学生達の和気藹々さや子供の無邪気さに微笑ましさを含んでいた物語が、一辺に吹っ飛んでしまい、読者を大いに戸惑わせる結果となり、面白いかどうかは置いといて、ひとりの登場人物の喪失がもたらす主人公への多大な影響を包み隠さず格好付けずにそのまんま描出し、読者までその世界に落とし込もうとする。まるで佳境を迎えたかのようなまとめ方も相まって、私だけではなく多くの方々も感動・少なくともなにかしらの感慨はあった、第62話から第64話と3話にわたる物語である。
6巻で日和の死は簡単に触れられていた。亡くなる一月前の話として彼の家でパーティーをした第52話である。この報告が今回の3話のための弾みをつけるために良い効果となってて、「今こそ話そう」という独白が、正面を向けなかった日和の死についてようやく語ることが出来た心の準備期間のようなリアルさなのである(まあ6巻には祖母の死が描かれているから、さらにもうひとつの死の話を続けるのはきつかったのかもしれないけど)。さらに、手書きが主だったモノローグが、白抜き文字の活字になっていることもあって、とっても内面性の強い物語でありながら、どこか一歩引いた客観性のある雰囲気にもなり、余白を徹底的に排することも加えると、読者と主人公をシンクロさせようとしている意図が読み取れ、実際それは成功し、ある読者は泣き、ある読者は憂鬱っぽくなり、私もまた深い感動を得、日和という登場人物と主人公・桂の関係を思い出そうと一巻から日和の話を中心に読み直してみたのである。
彼の初登場は第4話である。線もよれよれで描き込みも少なく、まだ作画に稚拙さが目立つ頃である。現在の様式が確立する前だけに、本作の特徴であるコマとコマをつなぐ独白も少ない。この回を読むと、義眼の左目を見て落ち着かなくなると語る桂と、今回の話で「(ヒヨコの絵が)そんなに好き?」と言われたときの彼女の態度を比較するだけで、桂が日和と接していくうちに安心感はもちろんのこと親近感を抱いていったことがよくわかる。そして1巻85頁の「日和さん 大丈夫かなぁ」という何気ない言葉が、日和という人物の危うさをこの時すでに語っていたことを知る。と同時に、親しくなったが故に抱くようになった大丈夫という油断もまた浮き彫りになる。
2巻で軽く登場した後は4巻第34話、第4話の表紙と同じ構図である、上達の様が良くわかる。で、この回で印象深いのがラストの桂なのである。もやもやした頭で何がなにやらわからないと語る彼女の虚ろな表情、日和に叱られたみたいだと感じてたじろいでしまう彼女。日和の義眼が視界に入っても普段のままでいられるようになった替わりに、彼女は日和とそれを取り巻く環境に対して明らかな意識の変化を起こしているのだが、まだそれを言葉に出来ない状況で、それは最後の最後まで明言されることなく仄めかされるだけであるが、こんな曖昧な状態で締めくくるという点でも珍しい回である。
6巻第47話、ここで「僕の命ってあと5年なんだよね」という台詞が出てくる。日和の病状がこの回でようやく明らかになり、桂にとって彼に近付くということは彼の現実を受け入れること・それはつまり他の友人達のような態度で日和と接することを意味し、それでもなお私は日和さんと一層親しくなれるのだろうか、という無意識裡の気持ちの揺れが出てくる(これが明らかになるのは、日和に手を握られて、その目が何を訴えているのかわからなかった桂に対し、すぐに迎えの車を呼んだ廣田を見て「何も出来なかった」と語る場面である。すなわち親しくなったつもりだったという事実が、それまでスカート着て浮かれていただけに気持ちの揺れ幅が大きく、意識できるほどの衝撃だったのだ)。また送迎する真ちゃんも登場、この回ですでに日和の死の物語を準備していたことが推測できる。
そして7巻の3話である。日和の店が表紙となるのはこれで3度目。この後の展開を思うと、桂の笑顔が唯一の救いのような気がする。日和の訃報を知らせるのが鈴木さんということを考えると、4話目で彼女と桂が日和の店を訪れた時点でこの場面は用意されていたような気にさえなる(日和と面識がある学校仲間は鈴木さんのみ)、まあそれはさすがにうがち過ぎだけど。で、知らせを聞いた桂の描写がまた真に迫ってて(心配する帆津さんの表情もいいよなーという話はおいといて)、ペンを落として呆然としている様子が表情だけでなく身体全体で表現されてて、こういう反応をするということは、死の予感めいたものが心のどこかにあったからこそで、でもそれは5年くらい先の話で今日明日の話ではないはずだ、というような気持ちがあったかは知らないけど、隣店の照屋さんにはっきり言われて現実味を帯び、帰宅して新聞の死亡者欄で確信するくだりの淡々とした描写に、読む者も息を呑む。彼の死は読者も回想する桂も承知なのに、余白を消し白を周囲に追いやったことで視線を画面に集中させ、従来の日常生活描写にはない緊迫感を煽っている。窮屈なところもあるが、63話と64話の間に白い思い出を挿入することで、どうにかそれを緩和している。
事態は桂にあの頃の感情を呼び覚ます。桂の高校時代の描写を通して、読者は彼女が元来暗い性格であること・警戒心が強いことを知っている。だから、見舞いに来た和歌子に「食べられます」という他人行儀な言葉遣いにちょっと違和感を感じると同時にあの頃に戻ってしまうのではないかとちょっとした予感も生まれる。それは第64話ではっきりする。暗さを隠しつつ感情の起伏の薄いあの頃の桂が描写されるのだ。その孤独感はただ事ではない。かつて冬の須磨の海で見た友田の涙の意味を彼女は知ったかもしれない。ここで友田を思い出した人は、孤独を癒してくれる人を求めて部室に駆け込んだ桂の前に彼女が登場したことにほっとしたかもしれない。私は嬉しかった。かなり感動してしまった場面である。桂の落涙とともに黒さから解放される画面の白さもいい、緊張が解かれて読者も安堵する。
桂の部屋の天井には、「FORTUNE STAR」という日和から貰った絵が飾ってあるはずなのだが、それが出て来ない。上を見上げる黒猫と白い影、桂が惚れた「月を見ている猫」のような簡素な絵。劇中には多くの猫が描かれ、桂自身第1話で猫の絵を描き、作者の猫好きがうかがい知れるが、これもそのひとつ、でも描かれない。忘れ去られた設定なのかな。いや違う、ラストで夕陽を見上げる彼女の姿が、「FORTUNE STAR」そのものなのだ(なんちて)。
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