「震災。」「震災から。」
木村紺「神戸在住」第1巻(講談社)より
普段よりも明るく朝の挨拶を交わす人々の図。周囲は倒壊した家屋の群。1995年1月17日未明の金城和歌子は奇妙な現実にすっとぼけながら息を白ませて無意識に外へ出ます。震災直後の景色です。彼女の現実は物にぶつかった痛さであり、地震に対する恐怖はまだ目覚めていませんので、その辺が震災を経験していない者にとって違和感となります。戦場でのん気に井戸端会議をしているような印象さえありますが、余震のたびに頭をもたげる恐怖は確実に被災者の心に深手を刻みます。悲劇的でも感傷的でもなく、淡々と「部外者」の自分が出来得る表現力に逆らわず震災を描いた「神戸在住」第7話・第8話の2話は、その違和感の描出に見事成功している力作です。
部外者の主人公は語りに徹し、代わりに現実感のなさを当時高校生で姫路に住んでいた脇役のひとり・泉海洋子に語らせて和歌子との違いを際立たせます。和歌子が倒壊した家の前から避難所への道程で目にした景色、どれもこれも震災を現実たらしめるに十分なものでありながら、それでも彼女はどこか他人事のような野次馬のような目付きであり、読者も同様です。
何故現実感がないのか? 私が見た震災の景色は全てテレビが伝える虚像でした。空撮の映像を称して「シムシティで破壊された町のようだ」と言うくらいで、架空の出来事でした。それに輪をかけて耳に届く「ライフライン」「活断層」といった知らない言葉に、笑っちゃうほど増えつづける死者の数はテレビゲームの得点のようで、どこまでも無責任な自分がそこにいました、今日の授業がないと喜ぶ洋子の姿です。そこで作者はひんやりとした手応えを突きつけます、崩れた家屋の中からかすかに聞こえた女性の声「助けて・・・」です。和歌子だけが聞き取ったその声は、まわりが未だに「えらいこっちゃ」と苦笑している描写と対蹠的で、正直、私はその卓抜した恐怖の表現に感激しました。それまで、私が震災の報道に現実感がないと思っていた要因に死体が映っていない、がありましたが、そんなもの、吹き飛びました。喉元に感じる剣先の冷たさに等しい恥かしさに私は意味なく反省したものです、申し訳ないと。単純に私は人の死に現実感がなかったわけなんです、震災に至っては見ごたえある映画の世界だったのです。ところが、このわずか1頁だけで震災の現実を知らしめるに十分だったわけで、その後余震のたびに怯える和歌子の姿に私も感情移入していました。
そんな私の感激も実に低俗なものなのです。やがて余震に慌てることもなくなり、一晩過ぎれば惨状が日常に忽ち変化してしまう空虚感が被災者を包みます。テレビやラジオが伝える自分達の知らない神戸を部外者は地獄とか戦場とかいい加減に形容できますが、たったひとこと「こら、あかんわ。神戸も終わりや」という言葉には到底敵わない。また一方で当事者であるはずの和歌子も、恐怖を知りながら虚しさに蝕まれて盛んに駆け回る若者達をぼうっと眺める。自分のほうがきっと彼らより苦しいんだ、両親は旅行中でいなくてひとりだし、この先どうなるかなんて全然わからないし、死ぬときには死ぬんだ・・・そんな思いがあったのでしょうか。
その若者のひとり・林浩(リンハオ)との出会いが彼女にとって唯一の灯火となりますが、全体に漂う空虚さってやつが感情を鈍磨するのか投げやりにさせるのか、あの「助けて」という声をもう忘れてしまったのか、ただただ自分を正当化するだけで、はっきり言って利己的なんですね。ボランティア活動という言葉は嫌いなんですけど、困った時に助け合うのは当たり前ですから、若者達に衒う気は全くなく不思議と図々しさを感じない、ですから林浩が和歌子のくるまる毛布をわけてもらう場面も自然というか必然。
明けて18日。一晩テレビを見つづけて寝不足の洋子が学校であくびをしている頃、冬の寒さと不安で一睡も出来なかった和歌子を人が尋ねてきます。旅行から帰った両親かと思いきや、当時つきあっていた高校の先輩で、内心残念なまま、彼氏としばし煙草を吸いながら雑談するものの、ちっとも心が晴れない。その原因を通りかかった林浩に指摘されて羞恥に体を縮める和歌子は、無恥な彼氏の反発・無責任な笑顔あるいは被害者面が、それまでの自分の姿だったことを悟って猛省します。そして両親との唐突な再会は劇的。疲れきった両親の息遣い「やっと見つけたわ」と、不意に泣き出す和歌子。このあたりの描写に解説は無用ですね。
彼氏に対する冷め、林浩への申し訳なさ、さして親しくなかった級友との偶然の再会にはしゃぐ、震災後の彼女の心の機微が冷静な語りと的確な絵によって簡潔に展開され、40頁にも満たない作品とは思えない重厚感がどこから生まれるのか? 迫力ある演出なく地味でありながら切々と迫る生々しさは作者の姿勢がとことん部外者であるからだ。震災のあった同じ年に放送されたNHKの大作・NHKスペシャル「映像の世紀」をご存知でしょうか。過去の貴重な映像と、その映像が写された当時の人々が語った諸々の言葉に、品のあるナレーションや音楽によって構成された、どんな映画も敵わない現実(現実と言うよりも真実に近い感覚)・フィルムが劣化していようとも当時の生々しさは衰えないことを伝えた番組、これに通ずるものがこの挿話にあるのです。崩壊した自宅の前で呆然とする両親の横で同じように立っている和歌子は、すでに震災直後の彼女ではありません。余震に怯える両親を尻目に泰然とし力強く、それは余震に無感覚になったのでなく虚無に支配されたわけでもなく、ひるまずに自宅の惨状を直視出来る冷静ささえ身につけるという成長物語でもあるのです。いやー、まいりました、ほんとに。未読の方はぜひ読んでください。損はしません。
戻る