梅田阿比「クジラの子らは砂上に歌う」1〜2巻
希望の味
ボニータ・コミックス 秋田書店
砂の海に覆われた世界で、泥クジラと呼ばれる漂流船で生活する約500人の人々の日常をのんびりと描いた作品かと思って読み始めたら全然違った、梅田阿比のSF作品「クジラの子らは砂上に歌う」である。「風の谷のナウシカ」を想起させる世界観は、おそらくかつて栄えた文明が砂に埋もれて云々というナレーションがあるからだろうし、いや実際に1巻の終盤に登場する「人形」と呼ばれるキャラクターの造形はナウシカの土鬼(ドルク)族を思い出させもしたわけだが、砂に覆われた世界の物語、という閉じた世界の中で生きる人々を描いていると思っていた私にとって、初読前の印象は、むしろ安部公房の小説「砂の女」を想起させた。
もちろん「砂の女」は、安部公房を世界的な作家に押し上げた名作であり、評論家がこぞって語りつくした作品であり、今更私が書くことなんぞないわけだけれども、蟻地獄のような砂壷の底の家屋に閉じ込められた主人公の男と、その家にただ一人住んでいた女、という状況に、発表当時(1960年代)の人々が感じただろう共産社会への寓話みたいなものよりも、この二人はどうなってしまうんだろう、という下世話なワクワク感が思い出された。
一方で「クジラの子」は冒頭からチャクロという女の子みたいな風貌の男の子のモノローグによって物語の世界が解説され、そのことから、これから展開される物語がすでにチャクロにとっては過去の出来事であることが察せられる妙な安心感があった。500人ほどの世界の中で、「印(しるし)」と呼ばれるサイミアと言うサイコキネシスみたいな能力の使い手が9割と、「無印」と呼ばれる能力のない・けれども印の人々よりはるかに長命な1割の人々。そして、印であるチャクロが船の記録者として・狂言語りとして物語を傍から眺める構図。同時に彼自身にも幼馴染とか仲間とのすったもんだがあるんだろうなぁ、という感傷は、「砂刑暦」というこの世界の暦の登場によって早々に打ち砕かれ、いきなり不穏な気配が物語に流れ込んだのである。
ああ、これはワクワクせざるを得ない。
「刑」と付く理由は想像どおりの結果をいずれ招くのだが、その前に泥クジラが遭遇した砂海の島で偶然出会った(実際は偶然ではなかったらしいのだが)少女・リコスとチャクロの戦い、戦いと言うには程遠いけれども、平和な世界が当たり前だったチャクロたちにとって、剣を持った少女の存在は異質そのものだった。また、「体内モグラ」と呼ばれる反抗者たち、そのリーダー格のオウニが泥クジラで一番の印の能力者という設定もそそられた。これは平和な世界ではない、血みどろの展開が待っている……という私の予感は、それでもまだまだ甘かったのである。
突然の襲撃は、この世界はどうなっているのかを説明するのに十分すぎるほどのインパクトと、これから物語を引っ張っていくだろうと思われていたキャラクターの死を描いたのである。
チャクロにとって死は、短命な印の人々が多いこの世界にあっては特別な出来事ではないけれども、それでも毎回辛いものであった。だが、1巻で死を迎えつつある印の人々とは異なり、襲撃・戦闘による死は唐突なものだ。予想しえない出来事に直面したチャクロは、幼馴染の亡骸を抱きかかえつつ、「戦うしかない」と考えるのだ。
さてしかし、戦闘に関しては、ほぼ何の能力もない泥クジラの人々。サイミアで殺戮する「人形」たちを見て、自分たちの力で人を殺すことが出来ることを学んだオウニたちだが、本当にここから本格的な戦いが描かれるのかもまだ物語は途中なのでわからない。2巻では、泥クジラの「刑」の意味が明らかにされ、最期も決断されようとしていた。
殺戮ではなく処刑だったという事実や、流刑の民の子孫だった泥クジラの人々という構図は、100年近いときを経たからこその「記録」と、「感情」という物語の主題を浮き上がらせた。1巻、2巻いずれも冒頭で記録することの意味が描かれる。泥クジラの人々を記録しようとするチャクロと、処刑の様子を克明に記録せよと命ずる執行者が対比させられる。そして、記録において感情を込めるか否かをチャクロは特に用心深く考える。出来るだけ私情で記録してはならないその姿は司馬遷のようだとは言わないし、そんな意図は作中から感じられないけれども。いずれにせよ、この作品は感情の有無をキャラクターの表情や挙措を丁寧に描き出すことで、物語の起伏を生もうとする。
目の前の子どもたちを淡々と殺していく「人形」たちは、感情を失った人間である。どんなに命乞いされようとも躊躇しない。仮面を被った造形が彼らの無感情っぷりを強調する。どんなに感情がないと説明しても、彼らとて何かしら口を開き目を動かす。それが時になにかしらの表情に見えてしまうこともあるだろう。だからこその仮面だ。「人形」だったリコス初登場時、チャクロに向かって「ニコ」と微笑む。そして泣きながらチャクロを襲う。この感情のもつれがそのまま行動として描かれるのは、泥クジラの人々が感情を抑制しようと行う「指組み」という習慣がないからであろう。感情の制御を失った者とそうではない者との戦いでもあるのだ。
この絶望的な戦いを前に物語はどのように展開していくのだろうか。ワクワクが止まらない。まともな戦力はチャクロとオウニとリコス、意味ありげな存在の少女・ネリ、船を沈めようとする長老たちと、「人形」という数知れない殺戮集団。反抗者のオウニは常にこの世界から脱出することを考えていたわけだが、なんとかしようと奔走するチャクロに対し、「希望なんかどこにある?」と冷めたような声でチャクロに言い放つのだ。
だが、彼らは希望を知っているはずだ。砂は泥クジラの世界や人々の隅々にまで張り付いて付着した。チャクロは「白くきらきら輝いた」と表現した。身近な存在である砂を受け入れ、砂とともに生きることに矜持さえ感じさせるチャクロたちは、きっと多くの砂に色や匂いを感じたに違いない。安部公房は「砂の女」に寄せてこんな言葉を残している。
「砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい」
(2014.5.4)
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