乙川灯「黒根さんはニャーと鳴かない」1巻
君のことだよ
講談社 モーニング・ツーWeb
たくさんの地域猫を見詰めてきたのだろう。飾られた猫の写真の数が、黒根さんの活動の長さと別れの多さを物語る。
第四話の冒頭で描かれた朝の出勤場面から、猫の世話を続ける理由が、自分の居場所を確かなものと毎夜確認するための、生きるために必要不可欠な習慣であり、日常を取り戻すための安らぎの場であったことを伺える。
社内で孤立し同僚とも打ち解けない黒根さんと、誰からも好かれる容貌にお人よしも相まって、みんなから頼られる仕事のできる営業マンとして認められながら、そうとしか生きられなくなっていた自分に窮屈さを覚えていた北大路が、夜の公園で邂逅するところから始まる「黒根さんはニャーと鳴かない」は、社会人の二人が地域猫の世話を通して、自分の居場所と、おそらく今後は自身の生き方も見詰め直しつつ、きっと期待される物語展開・好ましい関係性になっていくだろう二人の行く末を、黒根さんを猫に例えながら活写していく。
物語を牽引する北王路の視点による展開を中心にしながら、黒根さんのモノローグが少しずつ増やされていく。表情や仕草からうかがえる黒根さんの本心・考えは、まだ1巻では朧気だけれども、ある程度の形状がうっすらと見えてきている。その契機となる第四話と第五話が、1巻を締める挿話として対をなしつつ、波乱を匂わせながら、他の同僚を巻き込んで恋愛模様を呈していくのか。あるいは友達としての関係性をしばらく描き続けるか・そもそも黒根さんは北王路を友達としてみなしているのか不明だが、いずれにせよ、この二つの挿話を続けて読んだことで、一気に物語に引き込まれていった。
「私の居場所」「僕の居場所」という副題からして、分かりやすく示されてはいたのだが、それをいくつもの猫の写真で、1コマで表現してしまう第四話冒頭の演出に心を打たれたのだ。
家猫と違って、はるかに寿命の短い地域猫(野良猫に近いが、ある程度、人に管理されている猫たち)の説明と、猫たちとの接し方を解説した挿話からの次の展開、北王路が地域猫と仲良くなっていこうとする様子を、そのまま黒根さんと仲良くなっていこうとする北王路と重ねるという指摘は容易い。けれども、猫と違って人には接し方のマニュアルがあるわけではない。いや、もちろん猫にだって一匹一匹の違いはあって、傾向はあっても対策はそれぞれ考えなきゃいけないのは、猫たちと仲良くなろうとする北王路の奮闘ぶりにより示されているわけだが、黒根さんは猫と違って、北王路の言葉も理解できるし、何をしようとしてるのかも察することができるのだ。
第四話で居場所を奪われると思ったのだろう黒根さんの、厳しい拒絶によって公園の地域猫のお世話に関われなくなったと思った北王路は、黒根さんと会社ですれ違った際に見せた、おそらく黒根さんをいつも視界の隅に捉えてしまっているだろう社内の評判とは無関係の、本心に触れたような援護の姿勢に純粋にドキッとしてしまう。それを目撃してしまった「王子」と釣り合う「王女」と目される同僚・早乙女の「猫 お好きなんですね」というさりげないやり取りに、早乙女もきっと黒根さんの良き理解者になってくれるんじゃないだろうかという期待・あるいは逆に北王路を巡ってひと悶着あるのだろうかという不安がぐるぐると脳裡を駆け回ってしまうが、第五話の公園で対話する二人の様子は、ほとんど北王路の告白じゃないかとも思えた。
「君のことだよ」というセリフである。
そりゃ落ちるでしょう、恋に。構図からして、真っ逆さまに落ちてしまうよ、黒根さんが。こんの北王路のナチュラル・ボーン・惚れさせ野郎が。落ちてたまるかとばかりに、黒根さんが必死にしがみついたカバンから這い上がって脳内の思った言葉を垂れ流してしまう様子に、いや、落ちたのは北王路のほうだったか、と思い改める。
黒根さんはまだ自分の気持ちに気付いていないし、一読者のわがままな期待でしかないけれども、誰からも期待されていない・低い自己肯定感が、少しでも高まっていってほしいと、応援したくなるキャラクターとして、黒根さんに共感してしまう一面にも惹きつけられた。
期待されていない自分、という感覚がよく表れていたのが以下の場面である。
北王路の視点から描かれることが多い中、黒根さんの視点から描写される場面もいくつかあるが、その中でも黒根さんの感情にぐっと近づいた瞬間が、あった。1巻147頁の最後のコマである。

副部長からいじめに近い叱責を受け残業になってしまった黒根さんが仕事に集中している最中、ふっと一声かけられたことに気が付かない。他のセリフも均等に描くことで読者にも気付かれないように描きつつ、言われてみればすぐに気付ける労りの言葉「お疲れさま」に反応できない。部内で孤立しているとはいえ、副部長の態度に問題があることは理解し、いびられていることに同情した同僚からの掛け声を無視する形になってしまった。ページをめくって「今の私に…」と黒根さんが同僚に顔を向けるも、もう遅かった。ページを戻して、再びこのコマを読んでみて、一緒に「あ…」っと驚く。自分の居場所がないみたいだと感じている第四話から続く黒根さんの苦悶の日々は、自分の言動も一因であることも、認めたくはないけれども理解している、そんな一場面だ。地域猫と交流する夜の公園だけが、より一層、限られた自分の居場所であることを際立たせた。
物語は、まだ寒い季節である。マフラーで顔の下半分が良く見えない黒根さんは、暖かくなっていくにつれ、猫たちが景気よく活発になっていくだろう陽気に合わせて、いろいろな姿を見せてくれるだろう。北王路に助けられながら、自分の居場所を増やしていくだろう黒根さんの愛らしい様子に、一読者として心を打たれてしまう場面が、どんどん描かれていくんじゃないかという期待感がある。黒根さんに大いに期待している人間は、北王路以外に、物語の外にもいるんですよ。
(2025.3.10)
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