田島列島「水は海に向かって流れる」
距離感の構図
講談社 KCデラックス
十年前に不倫をして家を出て行った父とは知らず、高校進学を機に母の弟の家に下宿することになった直達と、同じく下宿するその不倫相手の娘・OLの榊を中心とした人間模様を、朴訥とした描線とユーモア溢れる対話劇によって、ゆったりと紡いでいく物語、田島列島「水は海に向かって流れる」がこのほど単行本三巻にて完結となった。
前作「子供はわかってあげない」から幾年月、待ちに待った新作は、訳アリキャラクターが互いの心情を隠しつつ仄めかしつつ、少しずつ距離を詰めあるいは距離を取る、微妙な押し引きを巧みな演出と構成力によって、前作以上のキャラクターの心の距離感を描出した、傑作である。
主要なキャラクターについて漫然と語れば長文になってしまうので、ここでは直達と榊の二人について、距離感をキーワードに焦点を定めて解説したい。
というのも、この作品には、これまでの短編集含めて田島作品にはなかった、二人のキャラクターの特殊な演出が構図によって描かれているのである。下図である。
図1。1巻85頁。仮に対角線キャラ構図と呼ぶ。その最初の例。
横長のコマを二つ並べ、対話するキャラクターを左上と右下の対角線上にそれぞれ配置し、その間をフキダシが覆いかぶさる、という構図である。劇中、20回以上繰り返し描かれるこの構図は、多くが直達と榊の二人に対して演出される。これにはどのような効果があるのだろうか。
奇妙な構図である。というのも、上図は一つの傘の元、互いに肩寄せあって歩いている場面である。にもかかわらず、一コマ目の右側に雨の描写、左側に直達の表情、真ん中に彼の思惑、二コマ目の右側に榊のナンとも言えない表情、左側に雨。つまり、隣り合っていながら、まるで正反対の方向を向いている・少なくとも一方は相手に興味がないような、そんな距離感を感じさせるのである。繰り返すが、二人は並んで歩いている、向かって右側にいる直達が左側に描かれ、左側にいる榊が右側に描かれるのである。
下宿のようなアパートに暮らす彼らは、うどんパーティーやバーベキューをみんなでするほどにはご近所づきあいを欠かさないキャラクターたちである。友達ほど親しくはなくとも、赤の他人ほどの距離感でもない。しかし、榊だけは図のような表情で人との接触をやんわりと拒むのである。自分の心に立ち入らせない。
一方の直達、この場面は直後にふわっとした榊への好意を自覚するわけだが、物理的な距離感はいくらでも縮めたり・相手も気にせず(子ども扱いしているからだ)近づいてくるけれども、肝心の心の距離は、上図のように近いようで遠いのである。
対角線キャラ構図は直達とほかのキャラとのやり取りで描かれもするが、互いに親の過去を知りあっていることを知り、接し方・距離の取り方がぎこちない二人の関係性が続く中、ついに直達の父と遭遇した榊がお盆攻撃をかましてひと悶着が起きる。とりあえず直達とその叔父と榊の三人で食事をして状況を把握した帰り道、2巻19頁で直達が本心を吐露しようとする場面で、この構図が登場する。
図2。2巻19頁。夜の橋の上で対話する二人。背景の光は通過する車のヘッドライト。
先に帰った榊に走って追いついた直達だが、顔を直視することができずに俯いたまま、視線の先は自分の靴先である。不倫をしていた母が恥ずかしいという榊に、直達は自分が恥ずかしいと語る。彼の言葉に榊が顔を向けている。図1とは異なり、彼の心に近づこうとする気配が榊に感じられる。彼女は子ども扱いすよるように、手を伸ばして彼の頭を撫でてみるが、そそくさと先を急いで歩き去っていく。
直達を子ども扱いし続け、彼は「いい子」でいたほうがいいという願望めいた榊の思いは、2巻107頁で自分の望む姿であったことが告白される。
図3。2巻107頁。酔っぱらって歩けなくなってしまった榊を背負う直達。
この構図も図1のように、隣り合っていながら距離を取っているような錯覚を引き起こすだろう。実際の距離は、上のコマを下のコマの右に移動すれば明らかなように、背中越しに接触しているのだけれども、直達を理解しているようで理解していない榊(理解したと思い込まないと過去の自分と今の自分を直視ることができないのかもしれない)は、実は直達自身をも理解していなかった本心を引き出した。
図4。2巻147頁。思いがけず自分の知らなかった感情に出くわしてしまった直達と、直達の気持ちをわかっていなかった榊。
二人のこの構図は物語後半から頻出する。この後、母の居所を知った榊は、直達に連れていかれるようにして母の今住む自宅前まで足を運ぶわけだが、突然飛び出してきた子供に驚いて逃げ出してしまう。2巻171頁、同頁内で二回もこの構図で対話が描かれると、もはや二人はこの距離感でしか顔を合わせられないのではないか、話をできないのではないかとさえ思える。図4のように実際には向かい合っていても、二人は同一構図で同じ方向を向かせない、常に対立しているかのような、心の交錯模様が、この構図の頻出によって強調される(もっとも二人が同一コマ内で向かい合う場面はいくつも描かれている)。重要なのは、二人が同じ方向を向く、ということだ。つまり図3がもっとも近い距離感と関係性ということになる。ここに至るには、この構図をどうひっくれ返せばよいのか・つまり、二人の距離感をどう変化させるか、ということだ。
3巻の対角線キャラ構図は、二人の関係性の変化に合わせて、さらに描かれることになった。物語が直達と榊に焦点を絞っているからだろう。
仕方なく泊まった旅館で、二人は向き合いながら心を寄せていくさまが、二人の不器用さを解きほぐしていくように、「君は幸せになるよ」「起きてたの」「イエ」のリフレインを頂点として、感動的に描かれる。
図5。3巻49頁。旅館の榊さんはどこなく艶っぽく描かれている。
図2と似ているけれども、榊は直達をもう子ども扱いしない。小旅行から戻った榊は、家を出る決心をし、直達との別れの準備を始めるのだった。それは、直達が十分に成長したことを認めたからこそ、距離を取らなければならないと悟った榊の、まだ彼を子ども扱いしたいというちっぽけなプライドが原因かもしれなかった。直達の靴を履いてニヤついている榊の気持ちの動きが見て取れると、自分の隠しようのない気持ちを自覚したからこそ、距離を取るしかないのだ。
図6。3巻109頁。向かい合う二人。
俯きながらや互いに別の方向を向きながらの構図が多い中、対角線構図による数少ない正面を向き合った告白場面である。
本作から田島列島の特徴的となったキャラクターの輪郭線、鼻の下から口元の線をあえて消すことで、キャラクターのどこかはかなげというか、頼りないというか、かっちりとした線になりきれない不安定な表情は、あるいは光と影の境界線としてキャラクターを形作っていく。
また、直達を見上げる榊というのも、これまでにない変化である。最初から榊より背が高かった直達ではあるが、榊に子ども扱いされる描写が多かったせいか、榊が上の立場にいるような場面が多く見られた。けれども、小旅行以降から対等な関係を意識した榊は、このまま彼の成長を止めてはならないどばかりに、告白するのであった。
けれども、榊の思いは、直達のまっすぐな思いを跳ね返せず、引っ越し準備のダンボール下の二人へと発展して、誰にでもわかる互いの気持ちを表明するのであった。
こうした同一構図を繰り返すことで二人の関係性を浮き彫りにしていく演出は、ラストで実を結ぶ。是非その目で3巻154頁の構図に注目してほしい。これまでどうしようもなく乗り越えられなかったコマの壁を、颯爽と通り過ぎる最高の笑顔のキャラクターを目の当たりにするはずだ。
続く155頁では、三コマ構図にすることで、常に二人の間に横たわっていたフキダシは邪魔だと言わんばかりに、あるいは二人の間に言葉なんかいらなかったんやとでも言いたげな二コマ目が、二人の間に長く横たわっていた溝をあっさりと飛び越えてしまうのである。
(2020.9.19)
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