「虫と歌」
2006年四季賞夏 四季大賞作品 月刊アフタヌーン10月号付録より
市川春子
月刊アフタヌーン四季賞2006年夏の大賞受賞作品が市川春子「虫と歌」である。
高野文子の亜流というにはあまりにも惜しい、哀しい物語である。昆虫の模型作り……というよりも新種の昆虫作りを生業としている兄と、弟・うたと妹・ハナの3人暮らし。兄は変な仕事ではあるが、特別に貧しいわけでもなく友人関係に不自由しているわけでもない高校生のうたは、やがて訪れる別れをいかに知り、いかに甘受するのかが本作の山場である。
ぱっと見、ほんとに高野文子なんである。「棒がいっぽん」の「奥村さんのお茄子」から最近の「黄色い本」くらいの高野調をそのまんま写し取ったかのような絵と演出なんである。正直、びっくりした。高野の新作じゃん、と思うくらいだったからだ。で、単なる模倣という次元に落とし込んで語れるほどのちんけな作品でもないんだから、さらにびっくり。演出法をしっかりと踏んでなおかつ独自のものとして取り込んでいるのである。
これ、雑誌の別冊付録なんで読める人がどのくらいいるかわからないんで高野調の演出例を挙げておくけど、高野文子読んだ人ならわかると思うんだが。
1
1は、特別な演出ではないが、「奥村さんのお茄子」の奥村さんの過去のテープを再生する場面なんか、こんな感じのが連続してて、カメラワークとも言えない・同じ構図のコマを続けたかと思うと、一気に反転して違う構図になって……高野文子は読者の目線よりも作中人物の目線に近づく傾向があるんで、だから読者がその人物と同化したときの効果はまさに妄想世界を見ているほどの錯覚が伴うんだが、うたのリュックが次のコマでちょっとだけ見えるっていう動きの演出とその間にアイスを袋から取り出す兄の動作、これをコマごとに見せられると読んでるほうとしては、のろさを感じるんだよね。季節が夏ということでその気だるさが兄にあらわれているんだけど。
2
2はメロンがあると聞くや否や冷蔵庫にダッシュするうたの姿っていうのを演出によって1コマで表現したところ。無駄がなさ過ぎて、私なんか、これまんま高野文子だよなーなんて偉そうに感心してしまったもんだ。動線をあえて使わないんじゃなくて高野文子を模倣するとこうなるってかんじかな。
3
3は、申し訳ないけどパクリと言われても仕方ない演出だよな。まあ好きなんだけど、こういうのって思い出すだけで「黄色い本」とか「2の2の6」とかある。画面の両端に人物を置いて真ん中は背景、だけど市川春子は真ん中の空間が気になって仕方なかったのだろうか、フキダシを置いている。この辺が高野文子との差か、いやいや比べてしまうのは新人には酷なことか。でもこれって、真ん中にフキダシあることで両端のうたと兄の姿がものすごく薄い存在になってしまうんだよな。これが、高野文子と市川春子の資質の違いってもんなのかもしれない。
高野文子「黄色い本」より
同「二の二の六」より
4「虫と歌」 「黄色い本」
4なんてまるっきり「黄色い本」なんだけど、こういう言葉の映像化というかマンガ化っていうのは「黄色い本」で存分に味わえるのだが、もともとセリフ自体が絵の一部になっているくらいフキダシも含めて高野作品は言葉の一言一句までもがマンガになっているんだよな。だから特定のセリフだけ抜き出して「高野マンガ語録」とかやってもまるっきり効果がないわけ。だけど、市川作品の場合は、セリフはセリフとしてきっちり作られている。だからセリフに重きを起きたい場合は、どうしてもそれが前面に出てきてしまうのである。
どっちがいいとかいう話ではない。というのも、先の演出例は前半にこそそちこちに散見されど、後半、特にうたとハナの秘密が明らかにされるくだりからは説明的なセリフが増え、兄弟の悲劇的な状況が次々と押し寄せてくるからである。こうなると高野調は影を潜め、おそらく作者自身が持っているマンガ感性みたいなもんが充溢してきて、高野文子の亜流ではなく、市川春子という作家の物語世界に引きずり込まれてくことになったのだ。
作ったばかりの新種のカブトムシに逃げられるという騒動があったその夜、兄弟の家に、昔作った人型の虫が舞い戻ってくる。昆虫の技術開発の一環として製作されたものの失敗、海中深く半ミイラ化されて保管されていたものがなんかの拍子で海面に浮上し、飛び出し、作った兄・いわば親の家にやって来たわけである。うたによく懐いたカミキリムシの変種である彼はシロウと名付けられ、次第に人間の生活になじんでいくことになるのだが、その過程で、読者は劇中のうたと同様に疑念を抱いていくことになる。うたもひょっとしてシロウと同じ虫なんじゃねーかって。やがて冬になってシロウは衰弱して死んでしまう。うたも視力がどんどん衰えていき、シロウの後を追うように倒れると、ベッドの中で、彼は自分がどんな存在だったのかを兄との語らいの中で読者に明かすことになる――
本編の演出で鍵となっているものの一つが雪である。舞い落ちる白い綿。視力の低下に悩んだ末に購入した眼鏡を試しにシロウに掛けさせる場面で、画面はシロウの目線そのものになる。ぼんやりしていたシロウの視界が眼鏡越しの景色だけがくっきりと描かれると、シロウが微笑む描写が次にくることになる。なんてことはない日常、眼鏡をかけない人に、あんたちょっと掛けてみてよとするように些細な出来事である。だが全てを読み終えて思い起こすなり再読なりすると、この描写の痛ましさというものに打ちのめされてしまった。
冒頭、うたが居眠りをする場面でも、この白い泡みたいのを見て「ここどこ?」と思う描写がある。海中に沈められたシロウがいつも見ていた景色。うたもかつては海中で同じものを見ていたかもしれない。暗い海の中を上っていく白く小さな泡が、地上では正反対の降り積もる雪であり、舞い落ちる桜の花びらであった。その違い、自分はあのいやな世界にいないという確信を与えてくれる景色。春、ベッドの上で今までの生を語るうたは、視力衰え、外が空なのか海なのかさえの区別も付かない。そして花びらなのか雪なのか白い泡なのかさえも。
うたの告白とも言えるこの場面で、画面はどんどんと白さを増していく。正確にはうたの白さが強調されていく。影にはそれなりの影っぽいトーンが被されていたが、それさえも薄くなってしまい、ほとんど真っ白になる。兄に向かって「生まれてよかった」と語る一頁でついには全てが消失してしまう。うたの生が霞んでいくのと同調するかのように描かれ無くなっていく線、そしてフキダシのみで構成された一頁、彼の視力喪失も含まれているだろう死の描写は、間違いなく市川春子のものである。
夏、一人残った兄。ハナももういない(妹もうたと同じ人型の虫であることは明かされているだけに、ああ彼女も死んでしまったのか……そしてそれを描写せず、さくっと省いてラストに繋げてしまう)。その兄の元に、昨年逃げ出したはずのカブトムシがひょっこりと戻ってくる。うたもハナも越せなかった季節を過ごして舞い戻ったそのカブトムシは、兄のこれまでの苦しみを吐露させ、鳴り響く電話の音が、残酷だ。
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