「泣く男」
双葉社 アクションコミックス「泣く男 山田芳裕短編集」より
山田芳裕
短編集「泣く男」の表題作は18頁の掌編でありながら表題を背負うに相応しいどころか、それ以上の名品である(もっとも、題名が「木田」よりさまになっているという理由もあろうが)。
物語は主人公・佐藤正美(男)の表情が崩れ落ちるまでの過程が描かれている。抑制した演出に徹し、最期まで淡々と、決して作者の感情を加えない作りである。そして、わずかなコマ数で伝えるべきことは伝える短編の必須事項も忘れない。それでありながらきっちりと「山田芳裕の漫画」であることを訴える画面構図と筆致がある。
作品は211頁から228頁であるが、細かく見てみよう。
まず、地味な演出は読めばわかることだろう。作者特有の大ゴマ・見開き画面いっぱいの見得がなく、落ちついている。前に収録されている「木田」などと比べてもそれがわかる。実に静かで切々と主人公の心情がしみ込む。さらに彼の暮らす部屋のさっぱりした様が、彼の生き方というか自覚されない人生の諦念を象徴している。部屋自体の形も横長に八畳と誇張され215頁の1コマ目、226頁の1コマ目などで奥行きをもって作者の特徴である迫力ある立体感をさりげなく描写させた。電話を受けてから映画を見る場面の経緯も巧みだ。216頁下段ではバイト先の美術館が禁煙であることを示して後のきっかけを作っているし、それ以外にもわかりやすく伏線が敷かれており、過剰な説明描写はない。冒頭の藤椅子に並んで座りながらの描写もいい絵で、最期の重要な伏線にもなっているから、これだけさっぱりした展開でよくぞここまで内容を詰め込んだものだ、しかも窮屈な感じは皆無、むしろ間がいくつもあるほどだ。
さて、物語の主題は「どう泣くか」である。感動する映画は個々人それぞれあろうが、その基準はなんだろうか? 涙の量で決まるならば、主人公はそういう感情を理解できない鈍感な奴だが、決してそのような描かれ方はされていない。当の私も泣かない。主人公ほどの冷徹さは持ち合わせていないが、泣かない。けれど感動した映画はいくつもある。そもそも感動して泣くとはなんだ? 映画に限った話ではないが、正直、これ見て読んで泣いた、というお話を目耳にするたびに、本当に心の底から湧きあがる感情を押さえきれないあまりにこぼれた涙なのか疑問である。わかりやすく言えば、人が死ぬ場面でよく泣く人がどうにも解せないのだ。いや、確かに悲しい。現実の死に直面すれば泣くかもしれないが、主人公曰く「感動させるつーのが少しでも見えっともうダメね」という言になるほど、そうかもしれないと思った。一方、主人公の恋人・桐島はよく泣く。清々しいくらいよく泣くから、あざとさがない。悲しいときはもちろん、悔しいときも嬉しいときも泣いてしまうのだから、彼との対比が非常に色濃くて微笑ましい。彼女自身も彼がとある映画に感動しない様子に少々憤り「感受性欠けてんじゃないの」と言いながらあまりしつこくその話を続けない。彼が感情を表に出さないのに対し、彼女は感情に純粋で素直なのだ。
後半の展開は(半分予想できるものの)劇的である。それも静寂に。これは擬音を極力用いず派手さを排している事もあるが、夏によくある効果音の蝉の泣き声がないのも大きい。つまり、劇中の静けさを表現するには自然の音が効果的なのだ、たとえば次に収録されている「河童の恋」ではししおどしが室内の空気を支配し、物語全体の雰囲気までつかさどっている。同時に主人公の心情の侘しささえ増幅させることに成功している。うまいなー。人間の情動を表情だけでなく、周囲の小道具を使って表現してしまう上に、「デカスロン」で発揮された読者をさまざまな視点に揺り動かした構図の数々、これだけ多様な表現力を持ち合わせている作家はそういない。「泣く男」はどうだろうか。225頁。右から左へコマを読み進めるのが原則だが、ここでは縦に読み進めるのが本来あるべき読み方ではないかと思えるくらいに主人公の心情が交錯している。それでも泣かない彼は、追憶に浸る。
これが彼に足りなかったものかもしれない。感情に引きずられず切り替えが早く、余韻を知らない。藤椅子で半ば呆然としている彼はそこで多くを思い出したことだろう、ひょっとしたら彼女の写真に向かって語りかけたかもしれない。冒頭に登場した発育の悪いサボテンがここで立派に成長しているのを見れば、それが察せられよう。そして彼女の下着の匂いに肩を震わせる彼の姿は背後から描かれ、実際に泣いたのか知れない、いや彼は泣いたのだ。これを読めばわかる。「膝の上には、手巾を持った手が、のっている。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるえているのに気がついた。ふるえながら、それが感情の激動を強いて抑えようとするせいか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりにかたく、握っているのに気がついた。そうして、最後に、皺くちゃになった絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれているやうに、ぬいとりのある縁を動かしているのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」(芥川龍之介「手巾」より抜粋。なお、原文は旧仮名遣いである。)
私の笑いの基準は、後で思い出して再び笑えるかに尽きる。感動の基準も同様だ、思い出して再び感動できるか、思い出して再び泣けるか。主人公・佐藤正美は、今後幾度も泣くほどの感情を思い出すことだろう。
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