「夏目友人帳」

白泉社 花とゆめCOMICS

緑川ゆき



 緑川ゆき9冊目の単行本は孤独な少年と妖怪の交流を描いた連作である。第1巻には4話が収められ、どれもが読み切りの体裁で、短編のまとまりのよさと連続物の物語の積み重ねを同時に得られる作品である。
 緑川ゆきという作家については何度もこのサイト上で述べてきたが、本作はもっとも安定感のある仕上がりとなっている。緑川作品の土台となっているものが「さみしさ」というありふれた感情にあるのは、彼女の作品を通して読んできた者にとっては常識だろうが、未読の方に解説すると、そのさみしさとは、世間一般にあふれるそれをも含んではいるものの類型的ではなく、例えば独りだからさみしいとか、たくさん知り合いがいるけど本当の私をわかってくれる人はいないとかいう訴えるような・自己主張の強い類ではなく、登場人物の言動から読者が彼らのさみしさを感じ取り、さらにまた別の感情をも読み取れることに対する驚きもある。ミステリー作品を描ける作者ならではの作劇術で、登場人物に感情移入をさせることで感動を与えるだけでなく、作品から一歩引いた態度で読んでも十分にその意外性に心打たれてしまう物語なのだ。
 「夏目友人帳」は、人のさみしさを妖怪のさみしさに置き換えることによって、主人公との感情の対比を鮮明にし、両者の心の機微を淡々と描写する。対比することで、主人公に危害を与えようとする妖怪の心をも浮き彫りにし、感動を相乗させている。で、少年・夏目タカシは妖怪の姿が見えてしまう高校生で、両親を早くに亡くし、親戚の家をたらいまわしにされて……というありがちな悲劇を背負っていながらも、懸命に独りでがんばって生きる姿を晒すわけでもなく、孤独を嘆くわけでもないのが緑川節で、こういう人物造形は、読者に歩み寄ろうとする主人公とは相反するものなので、読者を少年の感情に入り込ませる仕掛けがいくつか必要となる。そのひとつがニャンコ先生である。
 夏目少年は最近妖怪に追われることが多く逃げ回る日々が続いていたが、ある日、この理由が明かされる。小さな祠の結界を逃げる途中に破ってしまった彼は、祠から現れた妖怪斑(まだら)から祖母の名・レイコと瓜二つであることを聞かされ、レイコ(祖母もまた薄命だった)が生前に行っていた悪さを知る。レイコは少年よりも強力な妖力を持ち、妖怪を打ち倒しては負けた証として妖怪の名を紙に書かせ、封印し、己の支配下に置いていた。その名前の束が「友人帳」である。その紙は燃やしたりすると妖怪も同じ目に遭うといわれ、それ故に妖怪たちは「名を返せ」とレイコ・つまり少年を執拗に追っていたわけである。彼の元に訪れるさまざまな妖怪たちとの戦いや交流が本作の基本設定となる。妖怪斑は結界を破ってくれた礼と称して少年に妖怪の知識を教え共に行動し、友人帳を狙いつつも難局を救う(あるいは邪魔する)仲間で、その姿かたちから「ニャンコ先生」と少年に呼ばれることになる。ニャンコ先生は置物のまねき猫然としているが、普通の猫として振舞っている、この姿がかわいいのである。少年と戯れるニャンコ先生・本性は少年の何倍もある化け物なのだが、普段の姿が、重々しくなりそうなさみしさの合間におかしさをもたらし、この微笑ましい描写との対比によっても、妖怪たちのさみしさが色付いていくことになる。
 さみしいけどおかしい、という感覚。つまり少年は、そこそこ幸せな環境にいるのである(もちろんそれを壊さないための気苦労を少年は抱えている)。境遇は不幸と呼んでも差し支えないだろうが、今の少年を暖かく受け入れてくれた遠縁の藤原夫妻や、少年を気遣う級友たちが端々に描かれることで、読む側にも少年を受け入れる雰囲気を作ってあり、ニャンコ先生は少年の感情の変化の理解を促す格好の触媒・装置なのだ。慎ましいというか大人しいというか地味というか、モノローグで少年は感情を吐露することがあるんだけど、激情しないので、鬱陶しさ・押し付けがましさがない、だから読者とはいつもいい塩梅に距離が保たれている。夏目少年と読者の間には、常にいろんなものが入り込める余裕があるんだ。
 その空間に、作者はいろいろな妖怪を登場させる。少年と対する妖怪という図式ではなく、読者と少年の間に妖怪が入ってくるという図なのである。だから妖怪が登場するとまず読者には彼らの姿や思念が目に入りやすくなり、少年はその言動のみが描かれることになる。いや、実際は少年の思いも描かれて入るんだけど、例えばニャンコ先生との出会いを描いた第1話には、少年をしつこく追う妖怪との格闘場面(みたいなもの)が描かれ、少年にはニャンコ先生に教えられた方法で封印された名を返すときに、妖怪が持つレイコの記憶あるいはレイコ自身の思念が少年の脳裡に流れ込んでくる。その映像は、少年が感じたものであると同時に読者にも伝わってくるものなのである。少年の解説の言葉を介さない、生の感情が空間に横たわるのだ。そこで少年と読者は妖怪の気持ち・レイコの気持ちを同時に知る。つまり感情移入せずとも少年の感情を実感できる作劇が施されているわけなのだ。抽象的な話ではない、いや正直半分は感覚的なものだけど、感情移入を大事にする作家がいる一方で、緑川ゆきは、拙い画力を物語の構成力で補う術としてミステリー要素を導入したんだけど、それが各作品の底流にあるので、つまり犯人探しを主人公の探偵とは別の思考でしていながら、結論で同じ犯人に行き着いたときに感じる主人公との一体感のようなものが、緑川作品にはあるのである。
 さてしかし、「犯人探し」が終わったあとの後日談が、緑川ゆきの真骨頂である。それまでの捜査が、全ては後日談のための余興のようなとは言い過ぎだけど、名を取り戻した妖怪が去ると、読者と少年の間には再び空間が現れる。そこには妖怪が残した思いが漂っているので、それを通して少年を眺めると、同じ少年の絵だけど物語の冒頭とは違う姿が読者には見える。祖母が「友人帳」と名づけた理由、露神の情愛、田沼の孤独、燕の笑顔、それらを理解した少年と読者の一体感が心地良いのだ。
 私が緑川作品に熱を入れるのも、いろいろと想像できる・語れるだけの懐の深さをそれが持っているからだ。作者は作品の世界を提示するだけでいい、作者の誠実さは読む者にも結構伝わるものだ。いやホントにわかるものだよ、作者の感情って。具体的に指摘できないもどかしさがあるけれども、誰もがある作家の作品に惹かれる一因に作者の心ってのがあると思うんだ。そういうものを大切にして読んでいると、少年を通して作者の姿がほの見えるようなのだ。ファンでない人には見えないだろうけど、見えるんだよね。燕が夏目に抱きついて「ありがとう」と言ったように、読者というか私も作者にありがとうって言いたいのだ。
 だから、今日は暖かいなぁ。ありがとう、緑川ゆき先生。

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