ニュー・ワールド

青林堂

大久保ニュー


 二十歳でタバコふかして世の中斜に構えた美術専門学校生・真美子が本作品の主人公である。もう、これだけで嫌になる。巻末には作者を含めて、魚喃キリコ・南Q太・安彦麻理絵の対談があり、漫画家として新人前後の悲哀が面白く読めたが、この面子は引いた。帯の推薦文もこの三人である。少女コミックを買うより恥ずかしかった、なんでだろ。安彦麻理絵は嫌いだからどうでもいいが、魚喃キリコと南Q太はまずい、とても悲しい。この二人の作品への愛着は、手塚ファンたる私にとって手塚作品と等しい。物語と絵や演出が私の感性を面白さで圧倒してくれるからであり、じめじめとした私小説的側面が薄いから、フィクションとして素直に読めるのである(もっとも、魚喃はかなり人生を切り売った作品を描いているけど、彼女はほら、なんかいいんだよ、本人美人だし。いや、主人公の立ち居振る舞いが好きなのだよ)。だから、第1話「ハイスイおじょうさん」の前半の展開は勘弁してほしかった、自虐的な自分語り……さっさと巻末の対談を読んで作者が前期の三人と同年代であることを知り、なおかつ性別不明(どうも男らしい)から、こりゃ完全にフィクションなのかと了解して先を読んだら、片意地張らず気楽に読み進めた、で、やっぱり花沢さんの登場でこの作品への愛着が湧いたわけである。
 私はタバコを吸わないが、だからといって喫煙場面にいちいち噛み付くようなことはしないし、それはそういう設定の上に成り立っている登場人物という意識の元で読めるから、さして問題にもしない。けれどもこの作品に限ってはどうにも気が立って仕方がない。それは作者自身が喫煙を肯定し、私のような者に敵意を抱くだろうほどの愛煙家という想像に達し、結局、主人公の設定がタバコによってどうにか支えられているという希薄さが気に食わないということに帰着する。もちろん、多少の肉付けはされているのだが、世の流行に左右されたくないと悪戦する主人公が世の流行に頓着しない人物に一喝されあっさり感服するという構図、作品が掲載された雑誌の読者層にはぴったりなんだろうけど、この主人公は実に意志がないのである。それはつまり、主人公の挙措の感情が読者にゆだねられているということであり、私のように主人公をすっかり嫌ってしまった者にとっては、もはやどうでもいい存在なのだ。というわけで花沢さんなのである。
 花沢さんもタバコを吸っているが全然気にならない。第3話「こんなアタシの話」で暴走する花沢節は劇中ではたいしたことのようなことになっているが、正直、普通だろ、と突っ込みたくなったが、これはこれで作品の味のひとつになっており、荒くて雑で構図も何もあったもんじゃない漫画の中で、彼女の叫びはただひとつの光明なのである。そもそもこの漫画、雰囲気がいいとか、物語の伏線が巧いとか、この場面の描写がたまらないとか、そういう論がない。探しても見つからない悲しい漫画なのである。見所は台詞回し、これに尽きる。漫才ののりなのだ、これが面白い。これにしょうもない絵が重なるから読める(多分計算してそういう絵を描いているんだろうけど。それより、野々村を泣かせたときの花沢の肩になぜ妖怪ジコケンオがいないんだよ、という突っ込みは不毛だろうか)。
 さてしかし、これを読んで非常に自戒したのが、下手に文化を語るなかれ、という真っ当な哲学なのである。己の卑小さを悟らずに語られる作品評の数々がネット上に犇いているが、卑下めいた認識を持たないと、仮に「この作品は過去のこの作品に影響を受けた」なんて発言すればたちまち「いや、その過去の作品は実はもっと過去のこの作品に影響受けているのだよ」という説教を食らったり、また「この作者は過去にこんな作品しか描いてない」なんて断じれば「待て待て、これとかあれとかそれとか、他にも描いてるだろ、そんなんで通を気取るな」とたしなめられ、自分の認識をある作品に託して語るという行為は、ほとんど諸刃の剣、素人にはお勧めできないのである。と言いつつも大久保ニューの過去の作品を知らない私は図々しくも無責任な感想をぶちまけてしまい、僭越承知も恐縮している次第だが、短編「ハロー、こころ」の劇中、「坊ちゃん」の次に読もうとする本が「こころ」ってあんたそりゃないよ……しかもニコニコしながら買おうとしているよ、シュールなギャグってやつですか(どんな話か知らないで買おうってんだから当然だが)。


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