麻生海「の、ような。」1巻

日常のようなもの

芳文社 芳文社コミックス



 両親の突然の事故死に見舞われた14歳の兄と5歳の弟、預かり先が決まらない中、一人の男性が名乗り出た。彼は、二人を連れて交際している作家の女性のもとへ向かう……家族でもない親子でもない夫婦でもない四人の共同生活が始まる。「の、ような」という題名がキャラクターの関係性を簡潔に表す作品である。
 けど、個人的に「の、ような」とくれば、当然のように森田芳光監督の商業デビュー作「の・ようなもの」がすぐに思い浮かぶ。二ツ目の落語家の若者が、先輩や女友達との間で、なんとなく流されるように生きる。真打になりたいけれども、そんな実力はまだまだないし、恋人の親の前で一席打てば下手だと言われる。うだつの上がらない日常を淡々と、平坦と描きながら、テンポの外れたようなユーモアと巧みな編集にクライマックスの道中づけ、学芸会と酷評されたラッシュに音を入れた途端、世紀の名作となった、森田監督の奇跡のような映画である。
 何者にもなれない若者の焦燥感をそれと感じさせずに軽快に、そしてそれなりの道を示す予感を描いた映画と異なり、麻生海の本作は、それぞれのキャラクターがそれなりに何者かになった状態ではある。作家として独り立ちし、結婚をせず子どもも持たないと決め、マンションを購入して半ば同棲状態の彼氏と暮らしている主人公の季夏帆(きなほ)に、彼氏の愁人(あきと)が連れてきた冬真(とうま)と春陽(はるひ)の兄弟。名前に季節が織り込まれているのは、四人で一つという意図があるのだろう。最終的には家族に行きつくとしても、とりあえず最初は物分かりの良い塩梅で季夏帆は二人の同居を許可した。
 締め切り近くになると気性が荒れること、愁人のわがままには割と寛容など、最初のやりとりから彼女の性格と柔軟性が垣間見える。転居の手続きなど読者が心配する諸々を先回りしてテキパキと説明して物事を進める行動力からも、作家としての器量と頭の良さも窺える。あれよという間に四人の生活が始まっていく。
 テンポが良い。くだくだと悩まない。季夏帆のキャラクターに対して、自分を繕わずに物事の本質を見抜こうとする痛快さに共感したり感心する向きもあるだろう。さっぱりしていても、いきなり親と家を失った子どもを放り出すようなことはしないが、だからといって親であろうとはしない。彼女の快活さは、そのまま作品の明快さとなって読者を惹きつけよう。5歳の春陽に彼女は、自分は親の代わりにはなれない、とはっきり告げるのだ。
 さてしかし、本作の視点は四人のキャラクターに満遍なく振り分けられているわけではない。春陽の視点だけが、すっぽりと抜けているのである。三人にはそれぞれに物心があり分別も付く年齢だ、自分の考えというものがある。けれども、まだ5歳の彼には、そのような思索はないのだ。
 だからといって、彼の視点による構図がないわけではない。季夏帆がしゃがんで春陽と目線を合わせて状況を説明する場面で、春陽の視線が季夏帆の正面を捉えた構図が描かれる。冬真が「変な大人…」と内心呟き、その後布団の中で掛け布団をぎゅっと握ってうずくまるように眠る場面に、言葉はなくとも彼の不安と安堵あるいは決意や幼い弟との覚悟みたいなものもあるらしいことが察せられる。その想いは夕飯時に中学を出たら働いてここを出ていく旨の発言によって明らかにされる。その際にも弟を一瞥していることから、読者にとっても弟の幼さは物語の危うさであることは想像できるが、キャラクターである冬真にとっても近々の課題であった。ここで暮らしなさいと諭す季夏帆とそれを聞く冬真の間の春陽の素直なリアクションが殺伐としかねない対話を和らげているわけだが、春陽の視点はやはりないのである。
 だが中盤、保育園で一人ぽつねんと迎えを待つ時間がやってきたとき、春陽の言葉にならない想いが回想される。保育園にいつも迎えに来る母が、その日はおばさんが迎えに来た日である。記憶の蘇りとともに、彼の表情が描かれなくなる。特に目が隠されて描かれると、ひょっとしたら泣いているのではないか、と思うだろう。季夏帆が二人の母の残したスマホからレシピを用いて料理した味に涙した冬真のように。
 だが彼の言動は思いの外予想と異なり、少し外し気味に描かれる。もちろんありきたりな反応であれば、それはそれで当然すぎて物語としての読み応えに関わるけれども、物分かりの良すぎるように見える(あくまでそのように季夏帆や読者に見えるだけで、彼の心の内はやはり描かれない)5歳児が、迎えに来た季夏帆に抱きつくでもなく、握った彼女の手をぎゅっと力を込める程度で、春陽はやがて確かな手の感触を喜ぶようにぶんぶんと季夏帆の手を振ってみるのである。
 二人に関わるイベント、公園デビューやクリスマス会の準備、中学校の三者面談などが描かれる中、春陽にもようやくその心の内がユーモアを伴って描かれる。
 居間でこれまでのことを軽く話す季夏帆と愁人、お金がどんどん無くなっていくことを諭吉の命の儚さに例えると、それをたまたま聞いた春陽が「ゆきちは どんな子だろう」と考えると、次のコマで「くす」と季夏帆が笑うのである。もちろんこれは愁人との対話中に思い出し笑いしただけだとすぐにわかるのだが、まるで一瞬、意志が通じ合ったみたいな、母子の瞬間に見えたのである。いや、そんな意図がないことはわかるし、たまたまそのように描かれただけだろう。けれども、彼ら四人が……少なくとも季夏帆と春陽の二人は、本当の親子になって欲しいというどこかで思っていたことが、そんな思い込みをもたらしたのかもしれない。
 親子にとってはすでに単なる日常風景となった毎日も、彼ら四人にとっては出くわす出来事が全てイベントとなる。「の・ようなもの」で、ある日、主人公を呼びつけた師匠は、「最近うまいもんでも食べたか」と尋ねる。しいて挙げればお好み焼きですかねと応えた彼に師匠は事細かく詳細を掘り下げて聞いてきた。一通りの対話が終わると怪訝に「どうしてそんなことを聞くんですか」と尋ねると、師匠は、以前聞いた外国人の落語でマクドナルドで食べたハンバーガーを細かく丁寧に解説しながら食べた様子の噺を聞き、妙に面白くて感心したと語った。物語の核でもあるこの対話は、日常風景を細かく再現することこそ、物語の本質であるという森田監督の主張に他ならない。「の・ようなもの」では実際に明日の天気を当てる、というイベントを団地で大々的に展開する挿話が描かれる。一見、何も面白みもないただの天気予報が、スーパーの割引券を賭けた物語としてしまうことで、見過ごされてしまう風景に注目させ、物語に大きな起伏をもたらすのである。
 「の、ような。」が今後、どのような展開を見せるのかはまだまだ未知数だ。けれども、1巻の段階では、夕食の準備から食卓までを事細かく描くことで、四人の立ち位置や共同生活に対する心構えがくっきりと見えてきたように、一つ一つのささやかな描写が、物語としての彼らの人生という分厚い物語の断片として積み上げられていくのである。

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