「奥村さんのお茄子」

マガジンハウス「棒がいっぽん」収載

作者 高野文子



 卓越した感性と突拍子な発想力に支えられたこの作品に見え隠れしている絵描き歌が、重要な点のようだということは漠然としながらわかりますけれども、では、どういう意味があるのかという点を、劇中の様々な点と線で結ぶ思索はなかなか困難です。約70ページの短編とはいえ、登場人物はわずかに二人、奥村さんと遠久田と名乗る異星人の緊迫感のないやりとりが延々と続く展開で、焦点は1968年6月6日の昼飯に奥村さんが茄子を食べたかどうかということ。
 物語の焦点は、同時に始点でもあります。まず、物語にちりばめられた点を整理しましょう。一つ目が、奥村さんの昼食時の模様を収めたうどん三センチ分のビデオテープです。ここに写されたさまざまな人々の思いが各点に相当します。当然、奥村さんの思いもその点のひとつで、それらの点を線でとりあえず結んだのがビデオテープです。「棒が一本あったとさ」。絵描き歌同様に、何が何やらわからないものを順序だててつないで行くとひとつの形、「かわいいコックさん」、つまりわずか三秒の世界の意味が明確になるのですが、それを遠久田は「奥村さんもきっとあそこでお茄子食べてたことになります」と言います。どういうことでしょうか。遠久田の目的は、奥村さんがその日・その時刻に茄子を食べたかどうかを明確にすることです。奥村さんがとうに失念している以上、頼りになるのは遠久田の先輩が撮影したビデオのみですが、肝心の食べる瞬間が映っていません。つまり始点が失われているわけです。遠久田は当初、奥村さんに始点たる記憶を探ろうと、思い出させようと奔走するものの一向に効果なく、他の視点から食べたことを確認しようとするわけですね。それが絵描き歌を解きほぐす作業なのです。
 かわいいコックさんの絵をひとつひとつ分解していくこと。コッペパンを取りのぞき、アンパンを取りのぞき、お豆を三つ取りのぞき、三角定規を取りのぞき、・・・最後に残るのが「棒がいっぽん」です。これが奥村さんが茄子を食べた、と同じ意味になります。遠久田はこれをやろうとしてビデオの解析を行ったわけです。では遠久田がさらにやりたかったことは、各点に当たる人々が始点の奥村さんのことをどう思ったかということです。つまり、客観的に点は線で結ばれましたが、各点の主観はそれに気付いていないということ。遠久田は目撃者と言えない目撃者の六人に始点を与えて、当時を思い出させます。そうして脈絡なく結ばれた線がみな奥村さんに向かって伸びるわけです、ひとつの形になるのです。「奥村さんは茄子を食べた」という始点が、奥村さんの記憶からではなく、他の人々・まったく関係ない人によって形にされてしまいます。絵描き歌のようにわけわからないけど順序だてて線で結ぶ、ということです。
 茄子は食べてから三十年後に毒になるものです。食べたことを証明したい遠久田は、奥村さんの言葉から先輩の無実を確信して感謝し、今度は逆に茄子を食べていないけど食べたという証拠を探すことに奔走します。ビデオの解析は遠久田が屁理屈をひねくり出すためです。「かわいいコックさん」の絵描き歌も、書きようによってはいろんな絵になりえます。
 二つ目が奥村さん自身の人生です。6月6日の奥村さんの昼食を中心点として、一つ目の各点が横に広がる点と線だとすれば、二つ目は時間軸です。当時を振り返ることによって、これまで点としての自覚がなかった6月6日という日が俄かに特別な一瞬・人生の分岐点のような・事実奥村さんにとって生死を分かつ一瞬ですけど、これまでの奥村さんの人生・今の奥村さんの人生・これからの奥村さんの人生という大きな三点と線で結ばれてしまったのです。まるで奥村さんの人生がその日から始まったような錯覚さえしてしまいます。
 二つの次元を得たことにより、何かの形だったものがはっきりと絵として動き出します。どんな絵かというと、奥村フクオという存在、過去もあり、今もあり、未来もあるだろう彼です。小さな電気店の主人たる彼、父親としての彼、夫としての彼、そして6月6日に毒茄子を食べそうになった彼。人生の出発点は任意に決められるのですね。特に生年月日にこだわることなんてない。「楽しくてうれしくて、ごはんなんかいらないよって時も、楽しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時も、どっちも6月6日の続きなんですものね」という遠久田のセリフが示すように、奥村さんの人生の始点を1968年6月6日ということに決めてみたら、なんだか、思い出されるあれこれの点がそれの続きのような、そこから線で結ばれているような、どんな一瞬一瞬にも意味はあって、たとえ意味がなくとも無理やり点を与えて線で結んでしまえばいいわけで、では具体的に結局のところそれはなんなのかと言いますと、私たちってなんかの実験動物みたいなものかもしれない、と深読みしました。
 劇中の遠久田は、まるでなにかを投薬したモルモットをじっと観察している感じに見えなくもありません。生まれた直後の実験用として育てるモルモットを観察しないのと同様に、小さ過ぎては記憶に残りにくいだろうい、歳をとってからでは毒の効果があらわれる前に死んでしまうかも知れず、青年期の奥村さんは実験に相応しい適齢期だったわけです。だから始点がその日なのです。もちろん、これは観察者にとっての始点ですから、奥村さん自身は普通に生年月日を始点に据えて構わない(誕生の瞬間の記憶がないのに、それを始点にしてしまうだなんて、なんだか変な感じだ、と思うのは私だけかな)。ところが、奥村さん自身がビデオの内容の分析を面白がってしまい、彼自ら観察者に協力するわけです。そうして絵描き歌の始点「棒がいっぽん」が彼によって浮かび上がってくるという仕組みなのです。
 でも、この始点をちょっとずらせば、前述したように「かわいいコックさん」は違う絵になっていた可能性を見逃してはなりません。「丸書いてちょん」が始点だったら、ドラえもんになってしまいますから。

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