「おおきく振りかぶって」 スコアボード雑感
講談社 アフタヌーンKC 3〜6巻
ひぐちアサ
試合中にもかかわらず描かれないスコアボード。対三星戦の批評でそれがないことに少し触れた。野球マンガに親しまない読者にとっては、それがどれほどのことなのかわかりにくいかもしれないが、これは、全くもって野球マンガのあり方を覆しかねない事態なのだと私は勝手に興奮している。たとえば手元の野球マンガを拾って読んでみても、得点があったイニングには必ずスコアボードが描かれることを確認できよう。また試合を省略して描く際にも、スコアの経過だけで省略されたイニングの攻防を読者に想起させうることも出来る(これがたとえばサッカー物なら時計がその役目を担うだろう)。いずれにしても、得点経過というものは、登場人物たちの努力の結果を冷酷に描き示すものなのである。
では、これがあまりというか滅多に描写されないということは何を意味しているのだろうか。まず、それが描かれた場面の効果を考察してみる。
3巻85頁が、この作品で最初に描かれたまともなスコアボードである(まとも、というのは、得点経過が表示されているという意味で、スコアボードそのものはそれ以前に描かれている)。前述したとおり、得点経過だけで何が起こったのかを示す意味があり、阿部の表情を補完している。9回に自ら招いたピンチを放棄してマウンドを降りた榛名の姿勢と大量得点が、無慈悲に刻印されている。21失点、うち9回に8失点、被安打21、失策6、無残だ。9回裏の2得点・計7点が、エースがはじめから登板して最後まで投げていればもっといい試合だったろう(あるいは勝てた)ことを物語っているだけに、榛名ひとりのわがままで招いた結果という印象も強くなる。
次が5巻151頁(厳密には練習試合の結果のみを表すスコアも一度描かれているが、得点経過がわからないので、どのような試合だったのか想像し難いという点で、まともとは判断しなかった)。これは先取点を取られた高瀬がスコアを見詰めることで、今の状況を確認し冷静になる場面である。スコアの冷酷さが登場人物の混乱した頭を冷やしたというわけだ。同時に読者にとっても、本当に点を取ったんだと認識させてくれる。前々頁で何が起きたのかわからない風の選手の父兄(当然野球に詳しくない読者をも含む)に対する説明の意味合いもあろう。
3回目が5巻214頁である。バックスクリーンのほぼ全景を描写し、スタメンの守備位置打順が一辺に確認できる唯一の一コマである。これは試合経過の省略の意味合いがあろう。前頁の田島の三振で攻撃が終了し、次に攻守が入れ替わる描写をカット、代わりに応援に駆けつけたルリの視点から試合が語られることで、単調な場面(相手チームが三橋の投球を観察するための捨てたイニング)へ変化を与え、先取点に目を丸くさせていた父兄の解説役をも担うことになる彼女の設定が明かされる。
6巻までの段階で、以上がスコアボードとして意味ある描写である。6巻は両チーム3得点するが、スコアは描かれない。「2点目!」「同点」といった声援や台詞で経過が伝えられるのみである。省略されたイニングもありながら、それらは各打者の結果が語られる程度である。
何を中心に描いているかがひとつの重点になる。これを考えれば、スコアがあまり描かれない理由の一端が見えよう。
第一に、三橋を中心とした高校球児の内面描写が主である点。選手同士のコミュニケーションの様子、各選手の性格、人付き合いの差、野球への取り組み方、ひとつひとつを丁寧に描写してきた積み重ねが、試合中に選手が状況判断する言動に説得力を与える。相手チームの描写を挟むことで彼らの人間関係を読者に意識させるのも、相手バッテリーの会話に色をつける意味で大切だ。試合の描写から彼らの関係を浮かび上がらせる例もあるが、多くの作品が好敵手や相手チームの描写を欠かさないのは、彼らがどのような戦い方をしてくるのか読者の期待を煽るためにも常道といえよう。そして、内面を描き続けているからこそ、チャンスなりピンチなりで各選手が何を考えているかの描写にも入りやすくなる。まあ他の野球マンガも同じなんだけど。で、他との違いが、スコアの使い方ということになる。スコアの描写3例のうち、1例目は読者のためと言えるが、2、3例目は登場人物の視点である。内面描写の一部なのだ。他の作品の場合は1例目のような読者のためという側面が強い。確認のためだ。内面描写に重きを置いているこの作品では、選手が考えていることや見ている状況しか描かれていないと言ってもよい。登場人物がスコアを見ないから描かない、結構単純な理由なのだ。
第二は、作者の作劇術があまり全体を描かない・登場人物の挙動が描写の中心である点。実はこれが一番おおきい。以前にも書いたが、この作品はグランドの広さを感じさせる場面が少ない。象徴的なのが5巻91頁だろう。最初のイニングの投球を終えてベンチに入る前に振り返ってグランドを眺める三橋、ここはスコアを見ている可能性が高いが、それは描かれない。ここで描写されるのは、三橋が見ているものではなく、曇り空なのである。三星戦よりもグランドの広さは描かれてはいるが、それは広く描いているだけに過ぎない。感じさせるには、もう少しアングルを上げる必要があると思う。確かに捕手からバックスクリーンまでを一望にする描写はあるが、アングルが低いために、地平線(というかマウンド)に後方の描写が削られてしまう。他の広さを描こうとしている絵もほぼ同様だ。俯瞰した絵が少ない。だから遠近感を余程上手く表現しないと、このアングルの高さからでは、選手個々の位置を球場全体からは体感しにくいだろう。
さて、第二の点についてはさらに突っ込んだ指摘が出来る。従来の野球マンガが観戦者・つまり応援席からの視点だとすれば、この作品はベンチ内からの視点だということだ。いや、グランドに立って観戦している視点と言うほうが近いかもしれない。それだけ選手に接近している証でもあろうし、一方他作品は観戦者視点だから時折スコアにも目をやる・結果スコアの描写が増えるというわけなのだ(私は観戦中はイニングごとに得点経過わかっていながらスコアボード見ちゃうんだけど、他の人はどうなのかな。読者の私も観戦者視点になることがあるからスコアボードが描かれないことに時々調子を狂わされる)。
まあ今後どう描写が変化していくのかも含めて、ひじょーに楽しみな作品であることにかわりはない。でもあのシンカーは私は気にくわねーぞ。やっぱシンカーと言えば落ちるシンカーだろ。潮崎のシンカー、高津のシンカー、あれが私にとってのシンカーなのだ(作品とは関係ないが、多くの変化球が速度を落としながら変化するのに対し、落ちるシンカーは初速と終速にほとんど差がない。ぶっちゃけ終速のほうが早いことだってごく稀にある、すげー変化球なんだぞ)。
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