よしながふみ「大奥」19巻
未来へ
白泉社 ジェッコミックス
徳川幕府三代家光の時代、男性の致死率が高い奇病・赤面疱瘡の流行によって男性の人口が激減した、という設定により、大奥を舞台に歴史を丁寧に描きながら、将軍とそれを取り巻く人々の感情を逃さず掬い取り、ジェンダー論に自然と目覚めていくような啓蒙的な側面を長い連載によって帯びつつも、ついに15代将軍・慶喜の時代まで描いた、圧巻の物語が、終わった。
傑作とか名作とか、いくら言い尽くしても言い足りない作品である。個人的に当初こそ単に男女の役割を逆転しただけの物語と侮っていたけれども、史実を踏まえたうえでの精密な人間の描写は、おそらくこれが劇中で秘かに祐筆によって書きとどめられ続けた「没日録」そのものなのだろうと思わせる、歴史を目の当たりにしているような感覚で読み続けることができた。よしながふみの卓抜なマンガ表現は、キャラクターの長広舌によって読者の思考を停止させつつ、即座にそれを受け止める無言のキャラクター・間のコマによって調子よく、停止した思考を読者にすぐさま起動させ、物語のキャラクターたちと一緒になってその場で長広舌を咀嚼しているかのような、臨場感を常に味わい続けた。
将軍たちの苦悩は、女として世継ぎを産まなければならない・という「大奥」としての機能をそのままに恋物語として描かれる一方で、赤面疱瘡が平賀源内などの尽力によって種痘ならぬ熊痘によって治癒・予防できることにより、11代家斉の時代には奇病を克服、男性の人口が恢復していった。そうなると、これまで女性が将軍をはじめ主要な要職を務めるのが当たり前だった社会に、男性の職が増えていくことになる。
これまで、数の少なさゆえに箱入り娘のように保護され、種馬としての役割しか負っていなかった男性が、社会で機能しうる立場を得て、次第に要職に就いていくのである。
長い物語を読んでいる私はそこでハタと気づかされるのである。あの歴史上の人物は、どんな性として登場するのだろうか、あるいは、次の将軍は男だろうか女だろうか……
そう思ってページをめくる自分に震撼した。男であるのが当たり前のキャラクターの、性を意識しているのである。この変化は、知らずジェンダーについて意識せざるを得ない結果となる。阿部正弘が女性だったぞ、勝海舟は? 坂本龍馬は? どんなキャラクターが登場するのか、全く予想できない事態となる。
けれども、「大奥」はそんなもしもの歴史を描きはしない。江戸時代の多くの時代が女性によって統治されていた、という歴史を明治維新による新政府は隠蔽し、読者が見た将軍たちの苦悩は、すべて「没日」の文字のごとく、日の入りとともに消されてしまうのである。
さてしかし、家茂を女性将軍として描き、和宮も実は皇女だった(いや、実際の歴史も皇女なんだけど)として、世継ぎという問題が無くなると、家茂と和宮の友情物語へと展開しながら、幕末になだれ込んでいくと、期待していた英雄たちは歴史通りに男性として描かれ、大奥という舞台の外では、私たちが知る歴史が、動乱が、淡々と描かれていく。
最終巻となった19巻は、幕府と薩長が一色触発の中、巧みに詭弁を弄する慶喜をどうにか戦いの表舞台に引き摺り出そうとする西郷隆盛の暗躍と、なんとしてでも戦いを避けようとする勝海舟の奔走が交互に描かれる。薩長の挑発にまんまと乗ってしまった幕府軍は京都で激突するも、慶喜は錦の御旗に恐れをなして一目散に江戸に逃走してしまう。迫る江戸での市街戦に騒然とする中、勝は西郷との会談に臨む、江戸無血開城に向けた歴史的瞬間である。
けれど、読者たる私はこの展開にさほどワクワクしなかった。いや、それ以前から、物語が男たちを主体・それはつまりいつもの幕末物という何度も見た読んだ光景が展開し始めてからというもの、大奥の中の物語の面白さとは裏腹に、大奥の外で起きる出来事に高揚感の足りなさを感じていた。
西郷と勝の会談に、和宮がひそかに同行するという展開に何が起こるんだという期待を少し感じつつも、二人の対話に見どころを見出せないでいた。今から思えば、これはまさに和宮の感覚そのもの、なんだかよくわからないけれども、天璋院が行くなら私も行くと駄々をこねて勝に付いていき、漠然と二人の話を聞いているようなものだったのだ。だからこそ、私は和宮と一緒に、あの場面で! まさに! 家茂を! 思い出す! 一頁大で描かれた家茂に! 思いがけず! 感動してしまったのである!
新政府の根幹を揺るがしかねない岩倉具視と薩長の陰謀が明かされ、一気にまくしたてる和宮に、西郷は黙ったままだった。勝が慶喜の気質の小人っぷりを伝え、どうにか交渉の妥協点を導こうとすると、西郷がそれを制した。考え込む西郷、よしなが節の炸裂だ、長広舌の後の沈黙、ここではその間の沈黙が二頁も続く。まさに息をのむ。飲まざるを得ない緊張感の中、泰然と天璋院、瀧山、和宮が西郷を見つめると、画面は西郷の内面にぐっと近づき背景が暗転。目を見開いた西郷の言葉に、勝のアップからの微笑み! まさか勝に萌えてしまうなんてなぁ。けれども、このクライマックスの高揚感は、これに留まらない。瀧山である。よくぞ言ってくれたぞ和宮という心意気を、瀧山は掬い取り、真の御台所になったという嘆息に、家茂と過ごした月日がまたも思い出されて、感極まるのだ。
そんな大事をやってのけながらも、後日、会談を振り返る勝の言葉に和宮は関心がない様子で、ふ〜んという退屈そうな態度から、瀧山の軽口に腹を立てる表情のくるくる変わる様子がおかしくて、この緩急が、一読者をして、一緒に体験し、一緒にほっとしている、そんな一体感を得られるのである。
ところが皇女として正装した和宮の登場を見た瞬間、確かに美しも儚く描かれる姿に、思いがけず見惚れてしまうのは事実なんだけれども、これほどの性を強調する描写に違和感がないわけではなかった。だが、ページを捲ると和宮はそっけなく「私はいつだって私です」と言い放つ。これまで男装を強制されていた和宮にとって、着たい物を着たに過ぎない。ああそうか、男性とか女性とか、そういう性によって呪縛されていた大奥の世界から、和宮は解放されたんだ。……ということは、天璋院も、瀧山も、仲野も、これまで大奥に仕えていた多くの者たちも、性から解放されたということなのだ。
幕府の実質的な最後の将軍然として江戸城開城までのわずかな時間を取り仕切った天璋院は、胤篤として、維新後の日々を過ごすことになる。瀧山も実業家として、仲野も瀧山の養子になって名を与えられた。みんな、男性という性から解放されたキャラクターなんだ。史実では女性だったキャラクターを男性として見る、この視線そのものが、キャラクターに付与された・読者にとって当たり前だったどちらかの性に属さなければならないという、「男性」という呪いからも「女性」という呪いからも、唯一純粋に自立できる存在が、キャラクターであり、マンガの力なのかもしれない。
(2021.3.8)
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