武田一義「ペリリュー」1〜2巻
間抜けな死
白泉社 ヤングアニマルコミックス
太平洋戦争末期、ペリリュー島の攻防を描いた武田一義の「ペリリュー」が面白い。当時の日本軍の戦いぶりは、その玉砕による生存率ほぼゼロの数字だけで戦慄するし、自分がこの場にいたら……という、よくある妄想も瞬時にすぐ死ぬだろうと打ち砕かれる絶望感しかないが、この作品も同様に絶望的な状況を淡々とキャラクターの死の描き方で表出する。現代から祖父の戦争体験を回想する形式の冒頭、祖父・田丸が主人公としてその出で立ちを露にすると、さてしかし、そうした絶望感はあっさりと払拭されるに違いない。
「さよならたまちゃん」しか読んでいない武田作品だが、その作風は2.5頭身のキャラクターと記号的なマンガ表現と、その筆致に違和感のないやわらかい描線による背景で構築され、およそ劇画とは異なり、写実的な絵ではなく現実的な手触りで物語を紡いでいく。「ペリリュー」では、洞窟掘りをする田丸の「よっ」「ほっ」という掛け声のかわいらしさや岩につるはしが「コチン」と当たる描写など、南洋の暑さや前線の緊張感は、この絵のゆるさとは全く逆の状況説明のセリフを付すことにより煽っていく。やたらと怒鳴る軍曹、ひたすら喉の渇きを訴えるキャラクター達。そんな戦場の厳しさを描きながら緊張感のない絵を利用し、田丸は母に語り掛ける狂言回し的立場でその幼さを演出しつつ、日本に帰ったら漫画家になりたいという理由から隠れてメモ帳に漫画を描く様子を挟み、なんとなく楽観的な主人公を立ち上げている。もちろん、作者と思しき存在の祖父という設定をはじめに提示していることにより、読者自身にも、田丸は生き残るだろうという妙な安心感があり、田丸の気楽な雰囲気の一端を担っている。
さらに召集されて間もない戦場を知らない若者たちが多かったというのも手伝った日常の延長的な雰囲気が底流にありつつ、冒頭から物語は空襲から木っ端みじんにされた兵士を描写しながら、一方的に攻撃される状況下、防空壕で「すげぇ」と呟く場面など、やはりどこか能天気な様子が描かれる。もちろん、そうした印象は私個人のものかもしれないが、生きて帰るんだと悲壮感を露に血気盛んな吉敷や生きて帰れるわけがないとどこか悟っている小山を登場させる。
彼らはいずれ田丸とこの地獄の戦火を生き延びる仲間なのだろう……特に小山は、勇壮な死に様を夢見ているのだから……ところが、小山は序盤で唐突に死んでしまう。
間抜けな死という表現は慎むべきなのだろうか。私にはわからないが、その死に方は、言葉を変えれば滑稽と言ってもいいほどだった。米軍の機影に慌てふためいた小山は、滑って転んで後頭部を岩に強打、そのまま死んでしまうのである。吉敷は小山の敵討ちだと田丸を激励するも、他の兵士が漏らした感想は「なんじゃそりゃ」「無駄死に」である。
この挿話を序盤に持ってきたことで、本作品の本気度が知れた。戦争の悲劇云々でも真実を伝える云々のような使命感やプロパガンダではない。一兵士が目撃した戦争の舞台・それがたまたまペリリュー島だっただけであり、主人公の青年の思いを汲んだ孫がこの物語を描くことで、たまたま彼の生きた時代がそのような時代であり、今も彼らの精神性は現代の若者と変わらないという意志だと勘ぐったのだ(これを「この世界の片隅に」効果という)。冗談のようで結構本気でそう思うのは、田丸が漫画家になりたいという夢を持っているからだろう。
小山の死を契機に田丸は「功績係」という役目を負うことになる。戦場で死んだ様子を遺族に知らせる重要な役目だったが、彼は上官の命令で小山の死を勇壮な死に様だったと伝える手紙を書くこととなる。これによって田丸のどこか他人事のような戦争という死の世界を、一層強化する。それは読者も同様である。
だが、私がこの作品の戦争描写に衝撃を受けたのは、主人公のそれとは異なる。彼は、米軍の猛火によってさっきまで「楽園」と形容していた景色があっという間に消えてなくなり、夜間、照明弾の明りの中、これが戦場、と腰を抜かしてしまうわけだが、「へなへな」という柔らかい擬音とその場でしゃがみこんでしまう場面には、臨場感が感じられない・読者にとっての他人事のような景色がマンガの中で描かれているのである。ではどこに衝撃を受けたのか。
死に際の涙である。
米軍の上陸を迎え撃つ田丸が所属する部隊は、壕から向かってくる米兵を撃ちまくる。怯えて撃鉄も引けず「ドキドキ」としている田丸とは逆に、他のキャラクターは撃ち撃たれ倒し倒されていく。
銃撃戦の最中、頭を撃たれて倒れた兵士が「かーちゃん」と繰り返し言いながら息絶える。あっけない。ブルブルと震える様子は、死に際を柔らかく描く筆致の中にあって、多分こうなんだろうという冷めた感覚があった。顔の右上が血塗れか吹っ飛ばされたのか真っ黒に塗りつぶされたその表情に浮かんだ涙は、そのアップで彼の最期が描かれ、それを傍から見ている田丸のコマ、見つめることしかできない無力感に「死んだ!?」と信じられないと慌てふためくマンガ的記号の汗と対比された。
グロテスクに流れる血や飛び散る肉片・内臓はインパクトがあるけれども、そうした過激さはすぐに慣れてしまうものだ。一方で何度見ても慣れないのがキャラクターの涙である。ここでは、同じ筆致である現実の涙と記号としての汗がごちゃまぜになり、作風が抱えざるを得ない柔らかなキャラクター感を本物であること・現実であることを読者というよりも、どこか浮ついた田丸本人に痛感させるためであるかのように、フィクション世界のようなキャラクターの死を、現実の人の死と等価であることを強調した。念を押すように、壕に飛び込んできた瀕死の米兵も「ママ」と言いながら苦しみ死んでいった場面を描き、これこそが本当の戦場であると訴える。
つかの間のスコールと虹が田丸が感じた「楽園」と地続きであることは言うまでもない。楽園は消えてはいないのだ。戦場にいるのは人間たちでしかなかった。
さてしかし、この作品の本領はこんなものではない。
股間を撃たれて立つのもやっとだった角田という兵士の死の描写である。彼は「ちんこいてー」などと言いながら、もちろんおかしな場面ではなく痛々しいのだけれども、彼は壕の淵に立っている間、隊長の突撃命令の確認のため隊長に声をかけられると、その死の瞬間を描くのである。先の「かーちゃん」と言って死んでいった兵士と同様に、ふっと何もかも記号的表現が消え去り、体の震えが止まり、彼のアップを捉えたまま、一瞬静寂とするのである。
そして息絶えた彼は、崩れ倒れるままに地面に突っ伏した拍子に指にかけたままの撃鉄を引き、近づいた隊長を撃つのである。胸を砕かれた隊長は「バカな」と呟くのがやっとだった。家族の名を言いながら、隊長もまた同様に、全てが消え去って静寂、死の瞬間が描かれる。
彼らの死に様は、功績係としての視点を持った田丸にはどう映ったのだろうか、と読者は思うだろう。どこか滑稽さがある彼らの死は、勇壮に戦って死んだとか仲間のために果敢に戦って死んだとか、そういう美談とは程遠いし、私自身、こういう場面に本物の戦争を感じやすい。
過去に観たり読んだりしてきた戦争物でも印象に残る兵士の死は、結構あっけない死に方だったりするものだ。壕の中で小休止しているところ、不意に飛んできた虫を捕まえようとちょっと壕から身を出した瞬間に撃たれるとか、ヘルメットに弾が当たって助かったとヘルメットを脱いだ瞬間に撃たれたとか、どんな作品だったかは忘れても場面は覚えているものである。「ペリリュー」は、そんな印象深い死に方を多く描くことで、戦争で死は突然やってくるという現実感をひしひしと感じさせてくれるのである。
海岸線の戦いから、日本軍は後退に次ぐ後退、米軍に追われながら生き残った者たちが合流していく様子を描く中にあっても、この死に方は継続して描かれる一方、物語そのものが滑稽さを呈してくる。
水を求めて傷病兵を囮に決行した水確保作戦の直後のスコールなどなど、死に方の描写だけでなく、物語全体から田丸たちの戦いの意味のなさを炙り出していく。それは、意義ある死を望む兵士たちにとって容赦なく襲い掛かる虚しさだった。
滑稽な死に方を突き詰めていった結果、物語は戦争の無意味さという言葉だけならいくらでもいえる感触・手触りを読者に実感させるのである。
大仰な言葉も写実的な画面も迫力に満ちたコマ構成も必要としない。ただ淡々と死んでいく者たちを描くことで、戦争そのものが抱えている滑稽さ間抜けさを訴えてくる。
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