「ピアノの森」
講談社 アッパーズKC「ピアノの森」第5巻・第6巻より
一色まこと
一色まことの作品を読むのは実はこれがはじめて。さそうあきら「神童」つながりでピアノという名に惹かれて購入したに過ぎない。そもそも作者の絵・子供のほっぺたの表現がどうにもなじめなくて、なんかおもしろそうだなという匂いは感じつつも読むまでには至っていなかったのである。で、買って読んでも、やはりあのほっぺたは好きになれないのだが、作品の魅力は否定できず、なにより1・2巻同時発売というのが大きかったろう(1巻だけでは読者を引き止める力はない)。
作品は題名から察せられるように、音楽漫画である。音楽の表現に重きを置かず、ピアノを演奏する人間の機微を丹念に描いている良作である。音を主題のひとつに据えた「神童」とは目指す方向が違う物語である。
少年少女の心の動きが中心だけに、ピアノ演奏場面には、驚くような技巧を用いた演出もなければ、斬新な表現を駆使しているところもない。楽譜を擬音替わりに、そして鍵盤をはじく指の動きを星らしきもので表しているに過ぎず、音楽を体感させようという凝った描写がない。にもかかわらず、私は5巻の主人公・カイの演奏場面と6巻の誉子のそれに戦慄めいたものを感じてしまったのである。特別にその曲目の薀蓄を知っていたというわけではない、というか正直全く知らない。だが、明らかに、カイの親友・宿敵となるだろう修平の言葉を引用するまでもなく「何か」があった、一体なんだろうか、音楽は画面から鳴り響いてこないのに実感した音楽とはなんだろうか……特に6巻の誉子のピアノにはとても心が動かされた、いや、ほんとに。大袈裟ではなくて、感動してしまった。主人公がいない場面なのに。作者に拍手を送りたいくらいだ。というわけで、その「何か」について個人的な思いを述べてみる。
クラシック曲の解説・評論には、しかつめらしい調子でここの旋律のイメージがどうの作曲者自身の思想がこうのといった感じの文章が寄せられるという。曲が生まれた背景や作曲者の態度を知るには都合がよかろうが、果たして曲本来の持つ味というか、聴く者がそれぞれ抱くだろう感情を解きほぐすにいかほどの意義があろうか、となるとたちまちにして色褪せる。この辺が漫画の感想と違うところで、つまり演奏者についても考慮しなくちゃならないからである。「ピアノの森」は、そうした曲の生まれた背景をとっぱらって、作曲家と演奏家という構図にして、ややこしい音楽の解説を簡略してしまった。2巻後半で多くの作曲家が紹介されるくだりがわかりやすい。子犬のワルツ以上にショパンに惚れたカイは、これを機に阿字野にピアノの教授を請い、本格的に物語が転がり出す。
3巻あたりから5巻の見せ場であるカイの演奏場面を盛り上げる仕掛けが次々と描写され読者の頭に刻み込まれる。伏線、といったようなものではなく、物語全体の力で音が聞こえなくても演奏している場面そのものを盛り上げようという作者の苦心のあらわれだろうか。形を変えて繰り返される言葉はこうつながる、まず3巻134頁「母に聴かせるためのピアノ」、続いて194頁月光を浴びて「ピアノの森」とその後に続くカイが想像した森の中という好きな場所、4巻で敵として認識されたモーツァルトと「自分のピアノを弾け」と言う阿字野……要約すると、自分の好きな場所で誰かの為に自分のピアノを弾け、ということを物語の中に仕組んで、そこに修平とのやりとりも絡めて、まるで終盤に向かって登場人物たちが収束されていくように、5巻のカイに向かって全体が突進していくのだから、ちょっとでも作品世界にのめり込んだ者なら誰でもその波にさらわれてしまうは必然なのだ。
そしていよいよ、カイの初演ともいえる5巻。ここはもう最終回じゃないかというくらい、これまで描き連ねた場面が凝集されて爆発するような感情が押し寄せる。森の中で弾くピアノ、1巻で見せた靴を脱いで演奏する場面にまで飛んでいって、あのときの観客が修平ひとりであったように、今回は蟻一匹、さらに周囲は森の樹木……もう技術とか構成とか抜きにして、名状できない興奮、凄いとしか言えないのが悲しいくらいだ。
この興奮は6巻で鎮まるかと思いきや、尽きることなく、5巻の力を踏み台にしてさらに感動が飛躍してしまうのだから、なんなんだ、この漫画は。「まるで魔法をかけられたみたいに」、誉子の演奏は奇蹟に近い、というより、この場面の感動が奇蹟かもしれない。ウェンディのためにが、いつしかカイのために弾く誉子……「何かってなんだ?」
有名な問いがある、「誰もいない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」
誰もいないのだから音を聞いたものはいないわけで音はしなかった、と答えるだろうか。それとも、音は響いたに違いないが、どんな音かは誰も耳にしていないのだから知る由もない、と答えるだろうか。
修平の完璧な演奏は画面から想像できなくともオリジナルを実際に聴くことで想像することができてしまう。なにせ楽譜通りの完璧な演奏なのだから。ところが、カイと誉子の演奏はそうもいかない。曲に関する博識を誇ったところで意味がない。そこでどんな音楽だったのかと想像したとき、読者は森の中で倒れていた木に出くわすだろう、そのときの音……わからない、しょうがないと諦めてしまうのか? 否、あの場面にふるえた人ならば、各々の頭に何かしらの音が奏でられたはずだろう。二人の演奏が彼ら独自のものであるように、読者一人ひとりによって想像された音にも当然違いが生ずるだろう、それこそまさにこの作品を読むことを「自分のモノ」にしたということなのである。
倒れた木を見ても、そんな想像を喚起させない漫画もある。だが、「ピアノの森」は、想像した音は人それぞれたがえども、明らかにかの場面に感動してしまった読者は存在し、これこそが漫画で音楽の演奏を読んだということ、つまり時間・場所を超えてコンサート会場に読者をいざなってしまったということになるのかもしれない。とすれば、無意識裡でそういう想像を促した一色まことの筆致・感情は、確実に私たち読者の心に強く届いた旋律なのだ。
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