杉谷庄吾「映画大好きポンポさん」
映画を読む体験
KADOKAWA メディアファクトリー
pixivで公開された杉谷庄吾(人間プラモ)の傑作中編「映画大好きポンポさん」が単行本として今夏上梓された。
映画プロデューサーのポンポさん、一見ふざけた名前と映画の英才教育を祖父から受けた天才プロデューサーという特異な設定のキャラクターが主人公でありながら、この作品はジーンという青年が映画監督として大成する姿と、女優を目指して上京したものの生活に追われてレッスンを受ける時間すらないナタリーという若い女性が女優として開花する姿の両方の成長を描いた傑作である。
映画への愛にとどまらずクリエイター全てに向けられたかのようなポンポさんの言葉の数々は、さてしかし、私たちが映画を鑑賞する、という原点を踏まえた上で展開された成長物語の王道中の王道であり、それゆえにキャラクターの成長に焦点を絞ることができた作劇術を見逃してはならない。そしてそれは、物語の核となる部分をも明確にする。
映画にしろマンガにしろ、受け手がキャラクターに感情移入できるかどうかが作品の一つの指標となることがある。もちろん、そんなものに拘らずとも面白い物語は作り出すことができるのだけれども、「映画大好きポンポさん」では、映画で重要視されることがある感情移入を知ってか知らずか作劇に組み込んでいるのだ。
では、どのような条件によって私たちは感情移入を促されるのだろうか。
映画の撮影監督を務める中澤正行「「いつのまにか」の描き方 映画技法の構造分析」がわかりやすいテキストになる。この本では、映画のキャラクターに感情移入する仕組みから、私たち観客がキャラクターの「フリ」をする行為に「いつのまにか」移行する技法が解説され、この論法は、そのまんまマンガの解読にも一役買う。
例えば、多くの観客の感情を傾けやすい映画として恋愛映画があるけれども、簡単に考えれば、誰でも経験したことのある恋愛(片思いであっても)を主題としているために、想われる人であるか想う側であるかの違いはあっても、物語の誰かの想いに共感してしまうからだろう。では、家族との死別を描いた場合はどうだろう。この場合、最近家族を亡くした観客ほどキャラクターやストーリーにのめりこんでしまうことは容易に想像がつくが、だからと言って観客のすべてが同じような経験があるとは限らない。これが殺人事件のようなミステリ物なら、なおさら経験者は絞られてしまうだろう。では、すべての観客に共通している経験とは何だろうか。
今この映画を観ている、ということそのものである。
私たちは暗い館内で映画を観ている。動くことは出来ず、基本的にスクリーンを観続けることしかできない。実は恋愛映画への感情移入の正体は、物語の当初、主人公はほとんどの場合、想い人を遠くから見詰めることしかできないという、観客との同一化を描いているからである。
マンガの場合はどうだろうか。読者は、映画より身体や時間の自由が利くとは言え、やはりマンガも見詰めることしかできない。読者がいかに何かをしようが、マンガのストーリーにもキャラクターにも何の影響を与えることはできない。当たり前だが、この何も出来ずに見ていることしか出来ないキャラクターを用意することで、読者はそのキャラクターに注目していくのである。
すなわち、ジーン青年だ。
彼は登場人物の解説をしながら、嬉々としてB級映画を作るポンポさんやコルベット監督に主演の人気女優ミスティアを遠くから見詰めていることしかできない。彼はポンポさんの雑用係のような立場・制作アシスタントとして撮影所を駆けずり回る。読者が期待することは当然、この物語で彼が映画を撮ること・監督として大成することだろう。熱心にメモを取る彼の姿は、映画に対する真摯さを強烈に訴え、一層、それを煽るのだ。
キャラクターの好きな映画三本を紹介しつつ、設定を掘り下げていきながらジーン青年の三本が序盤に明かされないのも、彼はどんなキャラクターなのかを興味をひきたてつつ見詰めることしかできない状況をより強固にしていく。ポンポさんの祖父に何度も名前を間違われたり、ポンポさんに社会不適合者の目と、人としては切ない評価を受けるものの、クリエイターとしては喜ぶべき評価を与えられたこと、さらに彼の・最下層から世界を見ることしかできない立場だった境遇が語られる、好きな映画三本がいよいよ明かされる段になって、読者は、彼の不屈の魂を実感するに違いなく、否が応でも期待は高まっていく。
一方、バイトに追われるナタリーもまた、オーデションに落ち続ける日々に鬱屈としていた。やはり、田舎でスクリーンを見ることしかできない女優志望の、卵とも言えない欲望は、絵柄と好きな映画三本から想起されるどこか浮世離れしたフワフワ感を印象付けられるが、ポンポさんにあっさり失格と宣せられ、それでもいずれジーン青年と物語に深くかかわるという期待を読者に与えるだろう。
何もできないキャラクターが何も出来ないままの言動を繰り返すことで、そのキャラクターがいずれ何かを成し遂げてくれるのではないかという期待が生まれるわけだが、物語が進むにつれ、やがて読者にとってそれは大きなストレスとなって圧し掛かってくる。
つまり、ストレスは物語のどこかで解消させなければならない。カタルシスである。
まもなく、その機会が訪れた。ナタリーである。ポンポさんが彼女を一目見たときに描かれたぼやけた景色は読者にも引っかかっていただろう、それが少しずつ明るみになっていく、その第一歩だ(祖父と話すジーンをポンポさんが凝視する場面も含めて)。
ナタリーをミスティアと同居させレッスンを受けさせ、ジムでの身体づくりや料理を通した交流でたちまち二人は仲良くなっていく。ポンポさんが何やら考えている。この気付きは、読者の視点を次第にポンポさんに移行させる契機であり、二人の挿話と並行して描くことで、中盤の入口として物語の新たな転換点ともなる。ジーン青年の解説から、ポンポさんの映画観が明かされていき、ますます彼女への関心が強まっていくだろう。
ポンポさんを見詰める読者の視点は、ジーン青年と重なりつつ、ナタリーが呼び出された理由という謎を推進力に、物語は進行する。ポンポさんがなにやら企んでいるぞ、という期待がジーンとナタリーへの期待と重なっていくのだ。そして最初のカタルシスであると同時に物語の重要な焦点ともなる、予告編の作成がジーンに依頼されるのである。
出来上がった映画を編集して作られる予告編、目をギラギラさせるジーンが「超楽しい!!!」と熱中する場面がラストとつながる意味でも素晴らしすぎるほど素晴らしいのだが、いよいよ物語は読者の期待を背負って動き出す。ジーン青年の初監督作品が決定した。
するとどうだろう、脚本を書いたポンポさんは、これまで見つめ続けていた事柄を一つのプロットにまとめ上げた上でプロデューサーとして監督にすべてを託し、自らはジーンを見詰める側に徹するのである。予告編の成功があってこそではあるが、ジーンはどのようにして撮影を進めるのか、読者の期待も含めて、見詰められる対象として、以降、彼は描かれるのである。
さてしかし、読者の期待というものは身勝手な面もあって、おそらくジーンとナタリーが何らかのいい関係になるのではないかと思った・期待した読者もいることだろう。実際、そのような展開に至ってもおかしくない。だが、作品の分岐点はすでに予告編制作時で決定されていた。撮影後の編集作業がそれだ。
撮影場面の挿話によってジーン監督の資質に役者たちは圧倒され、脚本にないシーンまでも追加でセットされるほどに至る。もちろん見開きの、撮りたいシーンがついに捉えられた瞬間は素晴らしい効果を発揮していよう。だが、ナタリーがジーンに感激のあまり身を寄せてきても、彼は上の空で編集の楽しみに思いを馳せていたのである。「ヒヒ」というジーンの笑みが、核心なのだ。
映画監督の大林宜彦はある映画祭でこんな話をしたことがある。それは編集作業の重要性だ。本来、監督の指示によって撮影される映画は、全てのシーンにおいて監督の意思がある。だからこそ、編集は監督自ら行う場合もあれば、立ち会う場合もあるだろう。だが、大林監督は編集作業には一切かかわらないという。何故か。監督の意思すなわちそれは、すべてのシーンに思い入れが込められているということでもある。そのため編集にそれが雑念となって撮影時の思い出が沸き上がり、客観的な編集が出来ないというのである。
だがどうだろう、この作品のジーン青年に撮影時の思い出が編集作業において夾雑物となるだろうか。なるわけがない!!! 編集者は確かに客観的に作品を精査して不要と思われるシーンをぶった切っていくだろう。けれども、監督との意思疎通が欠かせないのも間違いない。この映画を誰に届けたいのか、という監督の意思は監督にしか知りようがない。コルベット監督の言葉が頭をよぎった。
ジーン青年が見詰めていた先には、ポンポさんしかいないのだ。様々な視点を導入することでキャラクターに次々と読者は思いを繋げて物語の行方を見守る中、次第に高まっていく期待感は、物語の鉄則にのっとり次々と解放されていく。時には期待と異なる展開に転がることがあっても、見詰める先さえ定めれば、物語はいつでも読者・観客の元に戻ってくる。そして、この物語自身が、ジーン青年がポンポさんを見詰める、という冒頭の立ち位置に戻ることで、読者はジーン青年のクリエイターとしての普遍性を確信するのである。
戻る