プラネテス第2巻 作者とタナベの距離感
講談社 モーニングKC「プラネテス」第2巻
幸村誠
1巻を読んでひとつ、キャラクターの魅力以外のところにとても力を入れる作家だという印象を持った。構成にしろ演出にしろ、いっぱしの演出家なんて足下にも及ばない精密で重厚な物語は宇宙の茫漠さに臆することなく、ユーリの悟った精神を踏まえながら淡々と描かれるものだとばかり思っていた。ところが第5話のハチマキがそのまま2巻にまで続き、しかも父親ゴローというつわもの宇宙飛行士の登場にとどまらず、タナベなんていう問題児まで登場し、物語は「宇宙と個人」という構図から「個人と個人」に移ってしまう。正直、不安になった。
もちろん1巻においてもノノを筆頭に個それ自体が今後の展開に絡んでほしい登場人物がいるし、個人と個人の対話は見られたが、どれもこれも宇宙を仲介役にし、身近となった宇宙空間を違和感なく現実味たっぷりに描いていたわけだから、何故タナベなのかという疑問が浮上し、それは読む上で奇妙なひっかかりを私に与えた。
愛がどうこう言うタナベに私の気持ちはハチマキとほぼ同化していたが、それはそれでいい。この作品の底に澱み流れる青臭さがちょっと強まっただけだからだ。第1話からして亡き妻との愛情、第2話では宇宙に愛されたと自負する老飛行士と、作者が宇宙と同じくらい人間を愛していることがわかるわけであり、つまりそれは博愛精神、すなわちタナベであって、ハチマキの他に作者の分身が登場したと解釈できたし、実際そんな感じだ。相反するようでどこか共通している主張を強く推す両者は、そのまんま作者自身の葛藤であるから、描くにしても随分と楽に描けたのではないかと、少なくとも1巻よりは。設定はもうできあがっているわけだから、あとはキャラをいじくってドラマを盛り上げようという意志はなくとも、連載物のさだめ故そういう方向に進むのも避けられないのか。ただ、そうなってしまうと作者が第1話で多くの読者を唸らせた(推測だけど、みんな驚いたでしょう? いやほんと、びっくりしたよ、新人でいきなりこれだもん。何者だよ、こいつって。というか驚かなかった人はとりあえず驚いといて)様々な宇宙空間の演出が出来難いのだ。これは大問題なのだ、少なくとも宇宙の中の人間物語を期待する私にとっては、単に舞台が宇宙だけのドラマなんて要らないのである、読む気もしないのである。幸いというか、第7話は宇宙空間が舞台なので、それを読んでいる気分は味わえるわけだから、愛言う多弁なタナベも、夢語る饒舌なハチマキも、63頁5コマ目とか76頁3・4コマ目や81頁の場面であー宇宙だなーと浮かれつつ人物の動きを追えたわけで、78・79頁の熱血なやりとりもこの2頁だけだから気にならず、次回も二人の宇宙上の対話が見られるのかと期待した。
で、「サキノハカという黒い花」前後編である。前回の対テロ話はフィーの大活劇で存分に楽しめた。それに対し、今度は月を舞台にした大立ち回りであるが、何が物足りないってタナベである。思い出せそうで思い出せない記憶のような不快感が彼女にはある。そもそも前編の対ハキムは宇宙船内が舞台なのだが、そんな気配は薄い。ここは月だよ、といってもいいような、もっとも人工重力が働いているからだけど、緊迫感が皆無に等しい。宇宙船で爆発が起きてその後のすったもんだがあっていいようなものだが、それもなく。タナベの存在がますます浮くような演出の意図が全くわからない。さらに前編と後編の隔絶ぶりに読むリズムが崩されてしまったが、これは作者のこれまでの姿勢・一話一話の物語作りが非常に丁寧に納得がいく結末を描写していたが為であって、前後編と銘打った弊害が生じたのかもしれない。副題を別々にしていれば、私のような短絡な思い込みはなかっただろう。
タナベの問題行動は後編だ。問題とは大袈裟な物言いだが、一読して戦メリが締めかよ、どうせならついでにハキムの処刑場面でも描き、木星に旅立つハチマキに向かって何か言いなよと投げやりな空想に及んでしまったもので、さてしかし冷静に読み返すと、作者は作者なりにきっちりと前振りをしているのだから、強引な展開という印象は薄らいだ。141〜142頁でハチマキを殴ろうとするタナベがそれ。この場面になって前編のタナベ「愛がなーい」発言も生きてくる、つまり彼女の拳にその意味が込められていたということになろう。力任せな言動で相手の「愛のない」行動を抑えることが出来ないことを痛切に感じ入った彼女だからこその戦メリ戦法・キスでもってハチマキの行動を封じ、同時に彼女がいればハチマキは暴走しないと悟ったろうハキムは手を引き、ゴローも足を止めたのだろう。
ところが、この話を一層深読みするには本編で抜粋された宮沢賢治の詩について考察する必要があり、一筋縄ではいかないから厄介だ。「サキノハカといふ黒い花といっしょに/革命がやがてやってくる/ブルジョアジーでもプロレタリアートでも/おほよそ卑怯な下等なやつらは/みんなひとりで日向へ出た蕈(きのこ)のやうに/潰れて流れるその日が来る」というのが詩の冒頭で、以下抜粋部分に続くが、こういうものを引用するということは、それだけで作者の力の入れようがうかがえる。140頁2コマ目の浮いたような走り方で月の重力の弱さも表現しているし、決して個人と宇宙を切り離した物語ではない。ということは、やっぱりタナベなのである。先の詩から156頁3・4コマ目との関係が明確になるけど、となると、賢治が激しく訴える卑怯な人間に対する憤懣さえもタナベが鎮めたことになる……とは飛躍のし過ぎだが、この詩を勝手に解釈すれば、自身法華経に帰依しながら念仏唱えるだけ世の中救えるのかという葛藤があって、世の中変えるには革命しかないのか・けど犠牲は自分が許せないし、といって周りの人々は我関せずふらふら生きてて腹立たしく、無力な自分にまた腹が立って、苛々して……これってまるっきりハチマキとタナベの対立そのものではないか。なるほど、タナベへの違和感というのがこれだったのだ、劇中において我を出さない作者にとって唯一本音を託しているハチマキだったが、今回彼女を加えることによって我の強いキャラが二人にもなってしまい、作品全体を覆う宇宙感覚が消し飛ばされたのである。
と言っても所詮憶測に過ぎないので、ここで私が驚いた第11話について触れよう。ここの肝は海中で体験する宇宙観・誰もが思い浮かべるユーリの宇宙観と同じである。この海の中ってのが実に上手くて、第2話のテーマだった海をここでまた持ち出して振りかえらせているのだ。第2話に「「帰ってこーい」って海に言われているような」というセリフがあって、そこでは宇宙=海にみたてていたけど、第11話になってほんとの海を登場させ、ほんとにハチマキはそこに帰ってきて、一つになってしまうのである。まいった。なんつう恐ろしいことをするのだ、作者よ、幸村誠よ、いや、幸村先生、偉いよ。
知ってる人は知ってるけど、宮沢賢治は実に飽きることなく作品に手を加えつづけた人で、「サキノハカ……」の詩も元は8つからなる断章の一部を抜いて更に改編したものでして(多分……よく調べてないので。すみません。)、この断章、当然未完だがこう終わる、「誰が誰よりどうだとか/誰の仕事がどうしたとか/そんなことを云ってゐるひまがあるのか/さあわれわれは一つになって」
一つになって、この作品は何処に行くんだろうか。作者に大きなプレッシャーを与えつづけたいものだ。
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