プラネテス 第4巻
講談社 モーニングKC 第4巻
幸村誠
「プラネテス」最終巻。まず最初に、作者・幸村誠氏に感謝したい。ありがとう、心の底からありがとう。
とにかく嬉しい。デビュー作が評価されて途端にSF作家の一人に括られそうになるも、背伸びせず、ひたすら自分の視線から人間を見詰め語り、いつも静かに笑っている。ほどなく自分の作風をつかむと、遊び心も芽生え、作品はSF漫画から脱却して幸村漫画へと成長した。着地点は全編通して描かれ続けたもの、第1話でユーリが見つけた亡妻のコンパスは、すでに木星を指していたのだ。
やっぱ演出というか構成というか、その辺の揺さぶりがとても誠実なのだ。手法としては斬新さはないと思う、常道も常道。ただそれを話の主題と融合し、伏線にしたり振りにしたりと、ネタの流れが美しいのである。第1巻からその美麗な旋律の片鱗はあったけど、まだまだ荒削りだった。もちろん読み切りだったというのもあるものの、連載と相成ってから人物の背景に厚みを持たせることが出来るようになり、タナベの登場から作品は正直に正面から人間を語り始める。そのくそ真面目な語り口に少し戸惑ったこともあったけど、最終話での見事な着地を読むと、心から拍手を送りたい。
ネタの美しい流れの典型としては、第18話「グスコーブドリのように」が挙げられる。冒頭で宮沢賢治の詩を引用し、女性の感情を意識させてから本編に入る。次にロックスミスが登場、生卵を投げつけられる描写の細かさによって避けようと思えば避けられた彼の心情やいかに、という問い掛けが現れる。続けて火の付かないライター。おもに三つのネタが序盤で描かれ、題名の意味が相乗してロックスミスとヤマガタの妹・カナの台詞の言外に存在する感情を想起させる、それが読者の感動であり解釈だ。この回はそれがひとつの物語として完璧に近い形で描かれる。中盤にカナの兄・シンと「グスコーブドリの伝記」が紹介され、読者の興味は頂点に達する。三人の関係には何があるのか、この話は何を語ろうとしているのか。キーワードは揃った。
後半、燃え尽きた線香、風に飛ばされた灰、墓の前でうずくまり続けたカナの悲哀がまず読者を捉える、詩の言葉で最も印象深い言葉を思い出すだろう。そしてまずライターがネタを解きほぐす、「火ィありますか」と言われてライターの口を向けるカナ。彼女はブドリの妹・ネリの名を借りて研究に邁進していった兄を思う気持ちを激白する。銃を前にしてなお動揺しないロックスミス、生卵を受ける直前の彼の哀しい眼差しが重なった。そして、冒頭の詩の意味が明らかになった時、彼女は悟ったのだ、「決して求め得られ」ることのない兄の本当の気持ちを「むりにごまかし求め得ようとする」傾向の意味を。「たったもひとつのたましひ」が自分のことではなかっというカナの衝撃とそれを告げなければならなかったロックスミスの心情。なんだよ、これ。めちゃくちゃすげぇ話じゃないか。人は理解できないし理解させることも出来ない、理解したと思うこと自体がおこがましいとでも言うのか。第17話「友達100人できるかな」で、己をレティクル座人・地球人ではないといって友達づくりに勤しむ男爵を信じたタナベは何を見ていた? 目だ、目の力だ。
この作品は幸村氏の成長とともに作風画風を変化させていくが、ただひとつ、ほとんど変わっていないものがあるとすれば、それが目の描写力なのだ。「目でわかるよ」、これがこの作品の重点のひとつだったのである。コンパスを見詰めるユーリの目(1巻38頁)、死に瀕した老飛行士の宇宙を見詰める目(1巻73頁)、地球を見詰めるレオーノフの目(2巻180頁)、ハチマキを抱き寄せるサリーの目(3巻108頁)、などなど。4巻はその威力が全編にわたって展開されていた、凝縮されているのだから読後の幸福感は1〜3巻を通して読んだ時の比じゃない。圧倒的。フィーとアルの目、フィーの叔父の目、犬の目、さらに4巻310頁・タナベの目のなんと美しいことか。
4巻を語る上で欠かせないのが19話から24話までのフィーを中心とした物語だろう。話の転がし方がホントに上手いね、感嘆するよ。たとえば124頁1コマ「それも使えそうだな」、それ「も」ですよ、それ「も」。次のコマの反戦活動の報道が大佐の手引きであることが推察できしまうではないか、「それ」がタナベがヘンなのという運動であり、「も」が146頁で捏造される番組に繋がっていくのだ。
物語としての出来は、次の叔父の登場で一層深みを増していく、演出のほかに多層的な構造で意味を厚くしていくのである。森の中で暮らす叔父の立場と現在のフィーの立場が重なり、194頁で完全に一致する。叔父が森の中に消えて行方知れずとなったように、フィーもまた地球に戻ってデブリ屋としての自分を捨てる、「人違いだってば」と言って彼女も森の中に消えていくのだ。フィーの悩みが「狂ってるのはどっちだ」という叔父の目に集約されている、彼女は誰も間違ってはいないことを知っている、自分の行動も間違ってはいないと迷いつつ信じようとしている。みんな自分の行動を信じている、でも正義は我にありとふんぞり返った連中のなんとまあ醜い目か。そこには妥協がない、譲歩がない、だから融和もないし平和もない、争いは必然の流れ……苦しむ者の目を作者は描かない。描けないんだろうな。作者自身も悩んでいるのだろうし、解決方法がわからない。144頁のフィーはきっと泣いているんだろうな。
人と人が理解しあうためにはどうしたらいいかってことをタナベやハチマキの口を借りて描いてきた作者にとって、戦争の描写は避けて通れなかったのかもしれない。偶然にもネタは1巻から撒かれていたし、描けないことはなかった、でも描いたところで、何かあるんだろうか。フィーの叔父は好きでやってんだから町の人から憎まれて当たり前か? 大佐の助け舟を拒否したフィーはホントにバカか? 私はね、坂口尚「石の花」で現実を合点していく大人たちのむごさを知ったんだけど、やっぱりみんな正義を訴えるんだよ。松本サリン事件で犯人扱いされた河野さんは散々脅迫状やその類の電話を受けた、被害者なのにさ、みんな事件を理解した気になって中傷して、実は犯人じゃなかったって明らかになった時、奴らは一体どこへ行っちまったんだ? 今ものんきにどこぞの掲示板でとある事件の容疑者の悪口書いてんじゃねーのか。オウム報道だってそうだよ、地下鉄サリン事件がドキュメンタリーぽくドラマ化された時の刑事だか警視だかの会話で、微罪でもいいから逮捕しちまえってな場面があって戦慄した。いや、もしあなたがこの番組を見てたのなら、この会話は普通に怖いなって思うべきなんだよ、想像力があれば。カッターもってて逮捕、図書館に本の返却遅れて逮捕、郵便ポストにチラシ入れたら不法侵入で逮捕、果てはわざと転んで公務執行妨害で逮捕、一度警察に目をつけられたら、私たちなんて簡単に逮捕されてしまう世の中なんだよ。正義とか正論とか、便利な言葉だよな、おい。誰だよ、こんな狂気をばら撒きやがった奴は。デブリみたいだよ、狂気のケスラー・シンドローム、どうやって回収するんだ、もう地球から出られなくなっちまうみたいに、自分の世界観を広げることもままならないから、他人を理解する素地がない。だからせめて本物だと確信できるものだけは失いたくない、フィーが太陽に涙したのは、そのためなのかな。
とまあ、こんな戯言をグチグチと考える合間に挟まれるコメディ描写も面白くてたまらない、この作品の魅力だ。というか、こっち中心にしたほうがおかしな漫画になっただろうな。でも、そうなると私の読後の印象が薄くなるし、そもそもの幸福感すら沸いてこないし、こんなもんも書いてない。で、それを支えているのが力強い演出なんである。
フィーと大佐の通信の場面、見ての通りフィーの髪の毛はフワフワしている、現場で働く者の姿だね。一方の大佐……地球にへばりついて宇宙戦争反対かよ、おめでてーな。こいつ宇宙に出てこないんだよ。それで反対反対言ってるわけ。しかもこいつの妻の宇宙への無関心ぶりはどうだろう、尻ぽりぽり掻いてる、つまり大佐の言説って非常にもっともなようでいて、もっとも身近な人間にすら影響を与えていないスカスカな主張だって訳なんだ。「理屈にならないあの感覚」って誰しもが感じたことがあると思うけど、探ればちゃんと理由があるんだよ、全くの的外れだとしても想像して理解しようとすることが、嫌いな連中とも融和していく第一歩なんだけどね、まあいくらこっちが近づいてもあっちは「頭の悪い」奴だと言って考えてくれそうもないんだけど。
バイクで疾走するフィーが転倒するところ、216頁からフィーの視線が描かれる、これが上手い。ここでフィー視点を強調・彼女のモノローグも被せてさらに強調、そこに飛び出した白い犬・217頁最後のコマ、犬を右端に集中線の煽りを描写する(擬音と、それに何かが散ったことを暗に示すかのような白い点々も混ぜ込んでて上手い)、彼女の主観だけで避けたってわかる。次頁ですっ転んだってのもわかり、219頁で今の彼女が客観的に描写され、私はまさか死んだんじゃあるまいなと思ったら、起き上がって「案外死なないもんだな」ときたものだからびっくりした。
白い犬につけられていた子犬用の首輪を外す、それから犬の一喝、フィーはこの犬に叔父の姿を重ねたんだね、だから叔父の名前を犬に付けたのだろう。人を理解するための想像力、劇中では大人の心と一緒に子供の心を持ち続けると語られること、これが大事なんだ。そういう諸々の思いは、続く25・26話で結集された、ハチマキの演説である。
バカと同居した青臭さがたくさん詰まってて抜群に面白かった最後の2話。ハチマキと対蹠をなす立場として描かれるようになったロックスミスと反しそうで反しない主張、どこか似ている。私の趣味で申し訳ないけど、坂口尚「VERSION」のラストを思い出してしまった、その言葉について語る台詞を引用しよう。
「不思議な言葉が一つ……たった一つあるの…… その言葉はとてもよく使われるわ 誰もが顔を輝かせるわ 誰もが信じるわ その言葉はこれからもよく使われるでしょう……それなのに その言葉は汚されることもあるわ 嘲笑(わら)われることもあるわ あきらめて捨てられることもあるわ…… 恥らう人もいる 怒り出す人もいれば 憎しみを抱く人もいるわ……(中略) その言葉には笑う意味も怒る意味も憎む意味もないわ…… その言葉と出会った人間の心の方がさまざまに映しているだけなのよ」
結局、人とともに生きていくってことなんだろうね。それだけは止めようたってやめられない。全てを拒むロックスミスと全てを想うハチマキ、58・9頁の見開きの言葉に「でも」と続けて326・7頁の見開きの言葉を読むと見事に繋がる。宇宙船だけを求めた二人・ハチマキとロックスミスを分けたものがその言葉を巡る解釈の差だとすれば、それにはあらゆる意味があり、あらゆる意味もないだろう。彼らは純粋にバカなのである。狂気に立ち向かう力が純粋なバカなのだ。
まだ言いたい、幸村誠先生、面白い漫画を本当にありがとう!
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