「レッド」1巻

講談社 イブニングKCDX 第1巻

山本直樹



 若松孝二監督の映画「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(以下の文章で映画と言えば、この映画のことを指す)を観た後に、映画と同じ舞台と時代を描いた山本直樹「レッド」を読んだ。私は山本直樹というマンガ家には明るくなく、作家としてどのような作品を今まで書いていたのか詳しく知らないので、ここでは映画(とそのパンフレット。1500円近くする分厚い本だった)で得た付け焼刃の知識を元に半端者が読んだ「レッド」の感想という程度の位置づけにして欲しい。
 さて、この作品のいくつかの特徴についてはすでに多くのサイト・ブログで言及されているが、登場人物に付いている死ぬ順番を示す丸数字と執拗なまでに「逮捕まで何日」「死刑判決まで何日」と解説文が付される作劇は、どのような効果があるだろうか。
 ひとつにはこの連合赤軍を巡る一連の事件を歴史に祭り上げる効果が考えられる。これは、私が歴史物を読む態度に似ている。マンガにしても小説にしても、あるいは大河ドラマでもいい、知らない人物が出てくると、必ずこの人物の歴史的事績を調べてしまうという癖がある。こいつを知らない自分が許せないみたいなばかばかしい自尊心もあるとはいえ、ネットや事典など(ちなみに私は「戦国時代人名辞典」「鎌倉・室町時代人名辞典」を常備して歴史物に臨んでいる)で逐一調べ上げることで、この武将は今こっちの味方だけどもうじき裏切るよとか、もうじき戦死しちゃうんだな……とか、この後行方知れずだけどオリジナル展開来るかな、というように、登場人物のその後の振る舞いをある程度把握した上でもなお楽しんで読む・というよりも見守る態度が生まれている。そして、この作者あるいは製作者はこの人物・事件をどう解釈するかな、というストーリーへの視線よりもむしろ作者への眼差しが強くなっていると言ってもいいだろう。それが物語を純粋に楽しむ態度かといわれれば窮するけれども、一度歪んだ視線はなかなか修正できない。「レッド」は、あえて読者にそのような視線を強いているのかもしれない
 第1話を読み終えたとき、最後の2頁で登場人物のその後が次々と説明されていく件には、安易に感情移入するなよ、という激しい拒絶を感じた。赤石が紹介される場面と、彼に付けられた1の丸数字。表紙の人物一覧と丸数字を目撃していた読者は、ここではっきりとその意味を知る。事件を知るものならば、ここで赤城は永田、谷川は坂口、吾妻は吉野……再び表紙に戻り、これは誰だ、この人物は何番目に死ぬからこの人だ……という推理に興じたことだろう。
 もうひとつ考えられるのが、実はストーリーへの視線でもある。登場人物への意識を強くさせられる数字が死ぬ順番であるとわかれば、当然、彼・彼女が死ぬ場面も描かれるだろうという予測は誰にでも出来る。ナレーションで済ませられる可能性すらあるくらい、たくさんの人物が殺されている事件である、ひとりくらい端折るかもしれない。けれども、赤石の数字1への意識は、ある読者には、彼が射殺される場面をどう描くかという期待へと変貌していくのである。まあ、ある読者とは私のことなんだけど。射殺されるのを知っている、ということが、彼の死をどのように解釈するかという作者への視線を生むとともに、どう組み立てていくかという視線も生んだ。果たして赤石の最期を読んでみよう。
 第6話。赤石ら革命者連盟による交番襲撃事件を描いたこの話で注視してしまうのはもちろん赤石である。実際の事件では、交番の奥に休んでいた警官がいて、襲撃した3人はそれを知らなかった、という視点もありうるのだが、読者の期待を裏切らないかのように、赤石の描写を軸にすえる。そして作者は、彼の死を劇的なものとして描くために、実際の事件では後で撃たれている他の襲撃者2人を早々に退場させてしまうのである。実に細かいところまで忠実に再現して描かれているという評価もされている「レッド」だが、作者はここぞというところでは作劇欲とでも言おうか、盛り上げるべく撃たれる順番を変えてまで赤石を描ききったのである。
 赤石は初登場となる第1話で、谷川たちの羽田空港侵入のテレビニュースに笑っている表情を捉えられている。「何笑ってんだ おまえら」とは谷川を捕らえる警官の口上だが、このセリフはニュースに談笑している四人の若者に向けられているのは言うまでもない。そこでもっとも印象深い笑顔の赤石と「射殺まで何日」という解説、そして隣に描かれたテレビが意味深な構図である。
 後に描かれるだろう赤城の逮捕場面も、映画ではラジオのニュース放送という形で描写されていたけど、テレビやラジオで仲間の活動を知るっていうのも奇妙な話のように思える。第8話の銃砲店襲撃の成果もテレビニュースで知る場面が描かれている。ああそうだ、携帯がないんだ。そもそも個別に連絡しあう手段を彼らは満足に持ってないのだ。だから仲間の計画が頓挫したのか成功したのかも、彼らが直接知らせてくれなければわからないし、国家権力の手先とかいいながらもその手先と思われる人たちが伝えるテレビニュースに頼らざるを得ないという現実もあるんだ。でも、テレビに映された赤石の顔写真にはひげがない。第6話冒頭の「この顔にピンときたら」の指名手配犯の赤石の顔写真に至ってはメガネもかけていない。襲撃決行前に赤城の元を訪れた彼は、電車内で女子高生に笑われたみたいという話をする。「やっぱりこのヒゲかなあ」。活動を始めてからは好きな落語の公開放送にも行けないことを嘆く彼の本心がほの見える。第4話で登場しすぐさま退場した赤石の恋人の存在にしても、活動で見せた・特に襲撃時に警官に向けた顔と、ひげ面にせざるを得ない事情に苦笑する彼との差異に戸惑う。だが、そうした私の戸惑いなんぞお構いなし、作品は赤石をテレビの箱の中に収めてしまう。「射殺された赤石一郎」というテロップと報道は、かつて彼が見ていたニュースの一部である。ひげのない強気な面構えを覗かせている顔写真から丸数字が消えている。彼を劇中の法則から開放したものが、テレビ報道である点について考えるのも面白いかもしれない(もちろん厳密には警官に撃たれた直後に丸数字は消えているわけだが)。
 さてしかし、映画を観た後に読んで驚いたのが赤城=永田の描写である。映画では冷酷さが強調される描写で彼女の人生に背景をあまり感じさせない設定だった。映画の終盤で、森と関係を結んだ永田は、坂口と二人っきりになった場面で彼に語りかける。坂口から森に乗りかえた形となった永田が今も好きよと言うセリフの似合わなさ。森と付き合うことに対して共産主義化がどうこう語り続ける彼女を制して総括に疑問を投げかける坂口……。一方の「レッド」では、谷川=坂口が永田に「結婚してください」と告白する場面が描かれている。ここでは、谷川の申し出に「女性蔑視」だ女性を利用していると赤城に語らせている。映画とマンガ、永田の扱いは全く逆なのである。坂口を利用し今また森を利用しているかのように描写された映画の永田と、谷川の個人的な都合につき合わされようとしている赤城は、後に投票によって革命者連盟のリーダーにも選出されてしまう。まさに「されてしまう」という感じなのだ。
 私服警察の尾行とのやり取りも頻繁に描かれ、赤城の人物像を厚く積み上げようとしている。丸数字の付いてないキャラクターとして彼女はその存在感を描写によって強調されている。数字がなくとも、私の視線は彼女を追っているのだ。第8話で「やったぜベイビー!!」と喜ぶ谷川に同調して笑顔を見せる赤城も、第1話で「やったぜベービー!」と指を鳴らす筑波には無表情とも思える視線を向けている。2巻の予告頁で描かれたSEXシーンからも見て取れるように、物語は男女の関係・特に永田をどう描くか・数字のあるキャラクターとないキャラクターの親密なシーンがどう描かれるのか・読者はどう感じるのか、歴史物としての視線はいつしか、キャラクターへの視線に変化していた。マンガの真骨頂である(加藤元久をどう描くかなー、すげー楽しみ)。
(2008.3.26)
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