「坂道のアポロン」1〜2巻
小学館 フラワーコミックス
小玉ユキ
現代を舞台にした作品で一番扱いに困るのが携帯電話というのを漏らす映画監督の話を聞いたか読んだことがある。そりゃそうだ、昔だったら、例えば死体を発見して大変だ警察だってときに、駐在所なり公衆電話にたどり着くまでの間に、大きな時間が出来てしまうだろうけど、今なら携帯でさくっと110番通報できる。古典的な例としては、携帯なき時代の学生同士の恋愛があるだろうし(連絡をするのには、電話に出る親という障壁を乗り越えなければならなかった、みたいな)、まあとにかく急いでいるんなら、さっさと携帯で連絡してしまえよ、という読者の突っ込みがあるわけで、作る側としても、その辺を考慮した描写が必要に迫られてしまうだろう。
さて、小玉ユキの長編「坂道のアポロン」をとても面白く読んでいるのだが、この作品の舞台が1966年から始まることに、だからといって前述の携帯のない時代の恋愛模様を私は期待していない。
作者のインタビュー(「このマンガがすごい2009」と「ぱふ 2009年2月号」)によると親の世代が丁度主人公たちと同世代という理由が語られているけれども、やはりこの時代を背景にしたときに避けられないものがあると思う。学園紛争である。作者の発言からも聞き手からも出そうで出なかった時代性。今のところ、キャラクターを取り巻く環境の描写に神経が注がれているようだが、彼らのジャズの演奏を聴く海兵たちの背後でうごめいているベトナム戦争にせよ、東京の大学に通う近所の兄的存在に近接しているだろう学園闘争にせよ、物語の背後には否応なく時代の影が忍び寄っているのである。
主人公の西見は成績優秀な生徒として某九州の高校に編入してきた。坂道や階段の多い街である。坂道という背景をキーワードにまた作品についてあれこれ考察するのも面白そうだが、それはまた別の機会に譲るとして、まず、西見と友達になる学校の暴れん坊の千太郎とその幼馴染の律子、そして律子の家の隣に住んでいて今は東京の大学に通っている淳。
もう淳が東京の大学生という設定だけで、今後の展開になんらかの影響が出まくるんじゃないかと思えてならないし、港町・米軍という舞台から浮かぶベトナム戦争。そうしたものは2巻までの段階では影が見えないけれども、いずれはこの作品の物語にとって欠かせない時代背景になるのは間違いないと思うのだがどうだろうか。
もちろん作品には千太郎にまつわるいくつものエピソードが仕掛けられているので、そう簡単に時代に翻弄される主人公たち、という方向には流れないだろうけど、私が1966年という時代の設定にこだわるのは、1969年1月のあの事件がかかわってくるんじゃないかという期待と言うか予測と言うか、そういうもんである。
1966年に高校一年ということは、受験は1969年。1968年頃から過激化していった東大紛争が、西見の進路にどう絡んでくるのかって話である。現時点でまだ高校一年で当時の音楽を反映させているらしい作品が、時代の空気を少しずつ露にしていくのであれば、西見の恋の行方に東京進学・しかも東大受験ってのを物語を動かす設定に付け加えるんじゃないかと。淳が紛争に加わって何たら……という展開も予想できるけれども、さすがにそれはないか。むしろベトナム反戦のほうがそれっぽい。1969年1月の東大安田講堂事件により、東大は昨年末に文部省から発表されていた入学試験の中止を正式に受け入れる。もちろん入学者はいない。西見をはじめ他のキャラクターの恋の行方が気になる一方で、確実に忍び寄ってくるだろう時代の空気を作者はどう展開していくのだろうか。
60年代の空気は、律子のレコード店内の様子や、当時のバスの描写から、ほんのりと嗅ぎ取ることが出来る程度に抑制されている。まあ単に描ききれていないだけかもしれないが、世相と土地柄をいかに物語で表現していくか、という縛りを作者がいかに解きほぐしていくかも見所である。とにかく今後の展開が気になって仕方がない、楽しみが多い作品だ。とある九州の坂道の多い田舎町、という設定だけれども、存分に長崎を意識させる舞台である。映画だと、最近は「69 sixty nine(監督・李相日」とか「解夏(監督脚本・磯村一路)」なんてのが思い出される。「69」は1969年という時代を強調し、「解夏」は坂道や長崎の風景を強調していた。
「坂道のアポロン」は何を強調してくるのか。高校生たちの純粋な輝きだけでは済ませられない時代背景を小玉ユキはどう料理するのか。三億円事件もあるし、アメリカのアポロ計画もあるし。1968〜1969年、西見たちが過ごす高校三年の描写はまだまだ先だけど、願わくば、西見と律子の恋に平穏が訪れてほしい。ついでに千太郎も。そのときはきっと、アポロ計画の月面着陸がテレビで流されているような気がする……
(2009.1.19)
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