「四月は君の嘘」
海底の春
講談社コミックス 1〜2巻
新川直司
「さよならフットボール」の清々しい印象がまだ忘れられない新川直司の最新作が昨年から月刊少年マガジンで連載されている「四月は君の嘘」である。神童と称された元ピアニストの主人公・有馬公正が、幼馴染の椿や友達の亮太に破天荒な演奏で聴く者を魅了するヴァイオリニストの宮園かをりとの交流を通して、再びピアノの演奏に目覚めるか? という物語を軸にしながら、思春期の恋愛模様や友情、さらにはかをりの病という、さまざまなドラマがてんこ盛りの先が楽しみな作品である。
というわけで、音楽マンガでもある故に劇中の見所の一つに演奏場面がある。どのように描き、どう演出することで読むものに音楽を感じさせるのかが、音楽を題材にしたマンガの楽しみでもある。音楽がないのがマンガの弱点という考えもあるようだが、そんなことはないだろう。特にクラシック音楽を扱っている場合、音がないからこそ、読者は演奏ごとに多くの表現に触れることが出来るし、キャラクターによる演奏の違いを演出の差で理解することが出来る。たとえば、一色まこと「ピアノの森」のショパンコンクールで多くのピアニストによる演奏場面が描き分けられるのも、マンガだから出来る演出だろう。実際に演奏を聞いたとして、素人の耳が演奏の細かな違い・テクニックの差異を何処まで聞き分けられようか。そのような考えに立てば、むしろ音が聞こえないからこそ、音楽マンガはたくさんの音楽を内包していると言えよう。
また、この作品では劇中で演奏されている曲をモデルとなった奏者が演奏する動画(正確には音楽だけ)がYouTubeにアップされており、それを聞きながら読めば、一層作品世界の奥深さに触れることが出来る仕掛けもある。それはともかく、マンガは音楽が聞こえない点を弱点と言うは、あまりに軽率といわざるを得ない。
さて、いくら奏者の演奏が個性的だと言われたとしても、どれほどのものかが演出されなければ意味を成さない。聞き役のキャラクターや聴衆に解説させるような演出も確かにあるだろうが、演奏している最中に、キャラクターの言葉が入りすぎると、読者にとって台詞は雑音になりかねない。「四月は君の嘘」では、この「個性的な演奏」という感覚を、「個性的なキャラクター」という設定を際立たせることで読者に感じさせた。
1巻の演奏は、かをりのベートーヴェン「クロイツェル」である。ピアノの伴奏付きとは言え、ほとんど彼女のヴァイオリニストとしての存在感が鮮烈な印象を残すわけだが、かをりの初登場場面の印象が色濃く反映されている。
映画「天空の城ラピュタ」で主人公のパズーがトランペットを吹くシーンの曲、「ハトと少年(スラッグ渓谷の朝)」を、かをりが公園でピアニカで演奏する場面である。見開きで彼女の回りを羽ばたく鳩が描かれ、「世界が 輝きだしたの」という言葉が被さる。このときの彼女の表情は隠されているが、頁をめくると、目に涙を一杯にし、溢れる水滴が頬を伝っていく彼女のアップが現れる。「ハト来ないよ」と彼女の近くにいた子どもたちの台詞により、読者は有馬が感じたハトの姿が幻か空想だと知る。子どもには感じられなかったけど、有馬と、おそらくかをりには感じられた鳩の羽ばたきと涙・何故泣くのかという感受性に対する興味が、マンガのキャラクターという存在を超えて一気に彼女への関心を引き寄せる。そして、好きな男の子・亮太と有馬に対する対照的な態度の違いや暴力により、彼女は初登場にして個性的な役割を獲得するのである。たとえば恋愛にしても、有馬には幼馴染の椿がいるし、亮太はモテモテのサッカー少年で、有馬とかをりの関係性がどう転ぶのかが全く読めない展開もまた楽しみとなっている。
そんな感情をあらわにし、表情をくるくる変える彼女がステージの上に立つと、忽ちにして凜とした面構えとなって、カッコよく描かれるのである。聴衆の反応や審査員の採点が台詞として演奏場面の間に挿入される。有馬の解説も加わる。どんな曲を演奏しているのかというところに重点は置かれていない、ここで演出されるのは、それまで見せていた彼女の態度・キャラクター性とは正反対の真剣さと立ち姿の美しさを強調することに費やされる。楽しそうに好きなように演奏する彼女、という一面が加わるだけでも十分に存在感を増すのだが、物語はさらにもう一味もふた味も添える。演奏後の震え、そして病気……
2巻の演奏場面はサン=サーンス「序奏とロンド・カプリチョーソ」である。かをりのキャラクター性を際立たせる演出に努めた1巻のそれとは別の角度から、主人公自身の苦悩を浮き彫りにしていく。どのような音が奏でられているのか? という興味を惹くものではなく、彼は今どんな心境なのか・どんな感覚なのかを彼のモノローグを多用することで演出するのだ。これは、かをりの涙の理由を悟る意味でも重要な演出である。緊張を表現する手の震えと演奏直前の涙の訴えに通じてもいよう。あれほどのプレッシャーの中でも堂々と演じた彼女の心のありようの一端に触れることで、有馬自身もピアノへの恐怖心に立ち向かう勇気を与えた。
当初こそ上手くいったピアノの伴奏も、譜面が見えなくなっていく感覚によって、その体裁を失っていく。彼は「暗い海の底にいるような」と語り、実際に水の中に沈んでいくような場面が描かれる。もともとモノローグが多く画面は必然的にベタも増える。ステージの明暗も黒を強調し、照明の白さが目立たなくなっていく。何も見えない何も聞こえない状態には海の底という直喩がぴったりだろう。さらに鍵盤を叩く描写までも沈んでいくような・画面の下に向かっていくような場面が増える。このような構図に至れば、演奏する有馬の顔も同様に下を向いたままとなっていく。
だが、かをりの態度により有馬は演奏する手段をもがきながらつかもうとする。だからといって、その場面が海の底から水面に向かっていくような単純な演出とはならない。下向きがちだった構図は上向き始め、彼の顔も上を向き始める。だがそれだけだ。上昇する感覚はない。むしろ上から照らされる白い光が強調されていく。下ばかり向いていたために、まぶしいほどの光や、かをりの美しい背中に気付けなかっただけなのだ。海の底にいても、彼の周囲には色づいた世界が広がっていた。
「海底にも四季があり、地上同様最高に美しいのは、やはり春。」という一節から始まるジャン・コクトー(堀口大学訳)の詩がある。「海底の春」だ。珊瑚などの海底の生物が彩なす景色を春に喩えたこの詩は、暗い海の底にも明るい世界があることを歌った。
この詩の風景が劇中で描かれているわけではないが、暗いステージを上から照らす照明の輝きが、まるで水面に照りつける太陽の光りのようなのであり、気泡のような光の点や息遣いや汗が桜の花びらになっていく演出がわかりやすい。
海の底にいても演奏する手段があることを知った有馬にとって、この時のステージは、まさしく海底の「春」だったのだ。
(2012.2.9)
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