「式の前日」

彼女のモノローグ

小学館 フラワーコミックスα

穂積



「長編漫画は駄作である。」なんて始まる文章を過去に書いたことがあるが、16頁の穂積「式の前日」を読むと、あながち間違ったことは言ってないような気がしてしまう錯覚に陥る程度に、優れた短編だった。方々で評判になっていたようだが、事前にそんなことを知らずに余計な先入観も期待感もなく読めたのは幸運と言えよう。
 さて。タイトルどおりに物語は結婚式の前日から始まる。縁側で横になっている若い男性のモノローグが物語の情報源となっており、「明日 結婚する」という最初の言葉が物語の全てを決めたといっても過言ではない。「社会人三年目」という言葉により、若いな……と思いつつ、男女のささやかな一日をのんびりと見守ることになる。16頁ゆえに、その余韻も一瞬かもしれないが、本作は再読する楽しみが残されているのだから、むしろ余韻が本編と言える。そして、彼の言葉とそれに対する彼女の言葉の真に意味するところが明らかになっていく再読こそ、短編の醍醐味の一つでもある。
 亡くなった父母の仏壇がある居間で彼と一緒に寝ることを提案する彼女の心理を、初読と再読で印象が異なる例にしろ、二人がこのとき何を考えていたのかに思い巡らすのも面白いわけだが、オチが明らかになるラスト3頁については、初読よりも再読の方がより一層感慨深い。  一夜明けて迎えに来たタクシーに彼女を乗せる彼のモノローグから、この二人の関係が明らかになっていくわけだが、家に残る彼とタクシーに乗った彼女に違和を感じつつも別れる場面で、これまで封じられていた彼女の主観が描かれることになる。もちろん物語の筋は一貫しているし設定に揺らぎはないわけだが、彼女の描かれ方・後部座席に乗り込んだあとの反応は、本来であれば彼が知りえない情報であるし、彼女を描いた3コマを除いても、オチのいい短編として成立しただろう。
 だがしかし、ラストの彼のセリフを踏まえると、彼女の3コマが違う意味を持って立ち上がってくる。
 彼のセリフは、これまで彼のために、おそらく多くの時間を割いてきただろう彼女の母親的存在に対して、ようやく訪れた父親的存在を発揮する機会として報いる言葉であり、場面だ。彼の大きな背中が印象深く描かれている。彼女の態度は懐かしさや思い出といった単語で説明できる類の感情であるし、寂しさに嬉しさも交じり合った複雑なものだろう。
 なにより最後に描かれるキャラクターの表情が彼女だという点である。彼の穏やかな顔はラスト2頁中には描かれず、言葉と態度で察せられる程度に想像できるくらいに描かれてきた。それに対して彼女の表情は終始、彼から見た顔だった。居間で両親に報告を済ませた彼女が彼の前をすっと通り過ぎる時、彼女の表情は前髪に隠されて描かれなくなる。ひょっとしたら、このときからすでに泣きそうな顔になっているのかもしれないが、そんな予感は二人で布団を並べて泣いている彼女の場面ではっきりする。物語の後半から、彼女の表情は泣く(寂しさ)と笑顔(嬉しさ)を行ったりきたりしていたと思われる。
 タクシーに乗った彼女の顔は明るい。そこから一転して今にも泣きそうな顔、頁を捲って泣く。ただし表情は覆った両手で見えないのは、彼が言う「ブス」な顔を見せない彼なりの(もちろん作者にとっての)配慮なのかもしれない。いずれにしろ、この時の彼女の心情を想像するゆとりがあるのが物語として秀逸である。
 本作の次に収載されている、主人公の女の子とその父のある夏の一日を描いた短編「あずさ2号で再会」では、女の子のモノローグで物語を進めつつ、眠ってしまった女の子を見守る父の主観となる場面が唐突に入る。寝る子は育つ然と娘の寝顔を優しく見詰めつつ、真夏の一時・それは本当にほんのわずかな時間だけれども、父にとってはかけがえのない時間を堪能する。果たして、父のこの感情は誰の視線の先にあるものだろうか? 幼い娘が長じてあの時の父の感情を推し量ることは出来るだろうし、それはタクシーに乗った後に彼女が泣いただろうことを彼が想像するのと同じである。だが、誰のものでもない視線の先で描かれる父・あるいは彼女の姿は、読者のために提供されただけなのだろうか。そうではない。今ここで触れたように、それは父だけが知りえる父だけの言葉であり感情だ、それをマンガ的表現をもってして演出しているのである。仮にここで父のモノローグが入れば、この作品は無残な愚作となったに違いない。タクシーの彼女が、話のオチに乗っかってベラベラと今の気持ちや彼への感謝の念を並べたてるのも同様にくだらない結果となっただろう。
 すなわち、感情移入の制御にあると思える。彼や娘のモノローグは、自然と彼らへの感情移入を促していく。そういう話だから当然だ。しかし、あるとき不意に突き放される瞬間がある。彼の言葉を理解していたはずが、違った意味で理解していたのだから。この短編の場合は、オチにそれが用意されており、読者である私たちは、これまで寄り添っていたキャラクターの心情と実は同一でないことを知らされるのである。主観から遊離した読者の意識は、このとき自在にあるといえるよう。再び彼らの視線に戻るのも、作者の思惑に思いを馳せるのも、他の視線・キャラクターに寄り添うのも自由である。
 今私が、タクシーに乗り込んだ彼女の心情に焦点を当てているのも、一つの選択である。彼女はどんな思いで泣いているのか? と、私は彼女のキャラクターに寄り添い、だからこそ、まるでタクシーから振り返って彼を見詰めたかのように、彼の背中に「父親」を感じたのである。
(2012.11.11)

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