「神童」
初出 双葉社WEEKLY漫画アクション連載 同社より単行本が全4巻発行されている。初版は1998年6月28日(第1巻)から9月28日(第4巻)まで4ケ月連続。
さそうあきら
天才ピアニスト・成瀬うたは小学生です。自分の実力を十全に知り尽くした彼女の前に現れるは、音楽大学を目指す浮かない浪人生・菊名和音(きくなかずお)です。二人を軸に展開される「音楽」というよりも純粋な「音」を通じた心の交友劇は読者を不思議な世界に誘います。その世界とは一体なんでしょうか。読後に漂う読者ひとりひとりが味わうだろうやさしく包まれたような爽やかさ、言葉では言い表せない感情に私は深く満足しました。ひょっとしたら私は劇中のうたに傾倒し和音といっしょの奇妙な感情を持って彼女の一挙一動に惹かれていったのかもしれません。
手塚治虫「ルードウィッヒ・B」はベートーベンの生涯を描こうとした意欲作です。作者の死により未完に終わったものの、劇中で描かれる「音楽」を演奏する場面・ピアノ演奏の場面は単に音符を並べるといった短調な表現に終わらず、最期まで貪欲に表現の何たるかを追及した天才らしく大胆な演出・たとえば曲の印象を作者なりの解釈で絵で構成したりといった実験的ともいえる挑戦的な演出を忘れずに貫いた、完結していれば間違いなく傑作と呼ばれた作品に対し、この作品「神童」はそれほど「音楽」を絵で表現することにこだわっていません。ですが、物語の最後では読者にうたの歌が聞こえるはずです。さそうあきらという作家について多くを知らない私ですが、作者の意図するところ、それは「音」を媒介とするうたと和音のふれあいに読者を巻き込んでしまおうという心憎さだと勝手に考えました。
序盤の野球の試合場面から、うたは音そのものを体感することを学びます。さえない和音はピアノの演奏はへたくそながら、天性の音感が、音の本質がなんであるかという抽象的な命題を知らず知らずのうちにうたに投げかけるのです。その後、うたが和音への想いを自覚し異性として意識し始めます。うたが和音に惹かれていく様子は実に説得力があり、ありがちな一目ぼれでも予定調和でもない、「まず先に音ありき」と冒頭の言葉どおりに、やっぱり音を通しての感情なんです、音楽ではなく。読者としては、と一般化するより、私個人としてはこのとき、予想していた展開でありながら何かすっきりしない、嫉妬に近い感情がありました。見事に劇中に巻き込まれた結果、私はうたに惹かれていたのです。それだけに途中から登場した香音(かのん)が和音と引っ付くことになって少々安堵しました。その前・和音が音楽大学受験の課題演奏を弾く直前にうたから力を与えられる場面は、後にふたりが結ばれてもおかしくない展開を予感させるだけに、香音の登場は唐突ですが、「まず先に音ありき」、和音と香音が惹かれあうきっかけも「音」なのです。
音楽にはまるで疎い人でも、「音」についてならば語れます。音は日常にあふれています、今、こうしてキーを叩く音に呼応して文字が現れるという当然の現象も、音がなければ「書く」という実感の伴わない行為に思えてしまいます。町中に満ちている瑣末な音の数々、それらをことごとく音符に訳してしまう絶対音感という能力に優れているのが和音です。大学に合格した彼は香音と出会い、伴奏ピアノの弾き手として成長しながら、うたの影響下にありつづける限り自分の音を見出せない、と決心して自分の道を歩き始めます。うたと和音の心の距離が離れようとするのです。実際にうたは天才少女として注目されるに至って芸能人並みの扱いを受けてしまいます。「理想の音」を自分の演奏に発見したうたに対して、自分の進路に懊悩する和音。ふたりのすれ違いは、これまでふたりが共有していた音の感覚に乖離が生まれることを意味し、音についての話で喧嘩別れします。すぐに仲直りするものの、ふたりの心が再び通い合うきっかけはうたの失聴でした。
耳の病気で音を失いつつあるうたに贈る、和音がコンクールで弾く曲はベートーベン最後のピアノソナタです。老いたベートーベンはすでに聴力を失って久しい中、身内にのみ響き渡る記憶された音だけをたよりに作曲しました。演奏直後に聴力を失ううたは、和音の気持ちを汲み取り、和音が己の進路をはっきりと見出したことを確信して演奏会場から去ります。聴力を失って絶望しかける少女と前途に明るさが見え始めた青年、ふたりの立場が一転します。
ですが、劇中で幾度となく描写された「音」へのこだわりは、音を失って初めて明瞭になります。それは、音楽は耳で感じるものでなく、からだ全体で感じるものなんだ、ということです。たとえば、和音の大学の教授・御子柴は劇中で「音楽はそんな小さい箱から生まれるもんじゃない」と言いきります。イヤホンを付けて街中を歩く人々への痛烈な批判、この言葉には、音楽は耳だけで感じるものではないという思いがあります。冒頭のうたと和音の出会いで二人が聞く川の中の音、この精神がそのまま最後まで引っ張られて、ラストシーンのうたの演奏になります。いま流れていると思われる曲はショパン「舟歌 嬰ヘ長調 Op.60」、劇中最後の曲目です。うたが求めた理想の音の一端に触れてください。
最後に。音を絵で表現することの難しさは説明するまでもなく、この作品はそれに積極的に挑むことはせずに、音を通じて触れ合うふたりの親密な関係・恋人でもなく父子のようでもなく兄妹でもなく、音が取り持つ絆が最後に「感性」によって結ばれる性差・年の差・才能の差を凌駕した純粋な交歓に嫉妬を忘れて心が震えました。
ショパン「舟歌 嬰ヘ長調 Op.60」のMIDIデータ利用を許可してくださった山崎真氏のホームページはこちらです。http://www.srkw.or.jp/~yamachan/
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