「スケルトン イン ザ クローゼット」
小学館 フラワーコミックス
岩本ナオ
不覚をとった。どこか間の抜けた線で魅惑的な人物を登場させるわけでもなく、ありがちな家族ごっこみたいな話かと思っていたら、最後、感動してしまった。
というわけで、そんな描線でありながらひょいひょいと彼や彼女の情感をつぶさに描いて見せる作家が岩本ナオである。
奇抜な展開や圧倒的画力で物語を築かない、誠実に人物の情動を積み上げていく台詞は、ストーリーテラーそのものであろう。まことに素晴らしい短編群である。
恋愛物は恋愛物なんだけど、人物がその気持ちに気付くまでの経過だったり、失恋もひとつの恋の形としてきっちりと作品にしてしまったり、熟練の作家みたいに、というか、私は単純に岩明均の作品を思い出してしまって、それは名前の一字が一緒という理由ではなく、岩本ナオ氏の描く人物・特に正面の顔が岩明氏の描くそれと時々そっくりのときがあって、慄然としてしまったのである。まあ偶然なんだろうけど。
さて、短編集「スケルトン イン ザ クローゼット」の表題作は、三話構成の中篇である。公認会計士を目指す貫一と、貫一の部屋に転がり込んできた従妹の中学三年生・野花と、貫一の弟で漫画家の公二の三人をそれぞれ各話の主人公に据えて展開される人間模様だ。
もうホントに上手くてねぇ、日常の些細な会話を終盤で物語の鍵にしてしまうんである。さりげないというかしたたかというか、三話あるけど一つの通した物語になっているので、何気に読んでた台詞のどれにも無駄がないと思えるほどの緻密なネームなのである。
貫一が語り手となる一話目は、彼が抱える悩みが軸になる。会計士を目指す一年目で試験直前に突如身体に不調を覚えてリタイヤ、二年目の合格を目指す彼にとって、身体の具合を心配されることが挨拶代わりになっているところに少々の気掛かりがあり、規則正しい生活をして合格に自信を見せるところの突然の訪問者・というか邪魔者の野花と公二にリズムを狂わされそうなのだった。母と暮らす野花はその母とうまくいってないらしく、一人暮らしをする公二は身だしなみに疎くて両親とも何年も顔をあわせず、問題児に家を荒らされて苛立ちは募る一方だ。そんなある夜、室内を汚した二人は貫一に追い出されてしまう。このままでは帰れない・掃除道具を買って戻ろうとする野花と公二の何気ない会話が、劇的に物語を盛り上げてしまう。この手腕たるや、末恐ろしい。表題の意味は、劇中より「タンスの中の骸骨」すなわち「他人に見られたくない子供」だという。本編ではそれが貫一の小さな悩みということになる。どうってことないと本人は思いつつも、周囲の人間にとっては大事のように「身体の具合悪いってきいたけど」という一言で、常に一年目の失敗・いや失敗という言葉ですら定義したくない・なにせ試験そのものを受けずに終わったのだから、を意識せざるを得ない。そういう挨拶代わりの余計な一言を、弟の公二も常に言われていたという事実。優秀な兄と比べられ続けた弟、だが公二の意外な一言が、兄を救ってしまう。兄の言うことに素直な弟の理由がここで明らかになる。兄・貫一の至福感がいとおしい。
公二が中心となる二話目は、漫画家として伸び悩む彼の姿が描かれる。担当となった女性に人間が描けていないと指摘され、意味がわからないと考える彼は、いつまでも格好に気を遣わない無頓着さで、孤独な己を自覚しつつ、もっと孤独なやつもいるんだと現況を甘受する。だが彼のそんな考え方は、自分自身への無関心さ・ひいては他人の気持ちへの無関心を煽った。衒いのない優しさに触れた過去があるにもかかわらず、彼はそれをいつまでも大事にタンスにしまっていたのだ。一話目で兄に言われた「インプットできんやつはアウトプットできんぞ」という言葉も思い出されよう。そして、彼のタンスを開くのが野花の言葉である。一話目では世間知らずの子供っぽい描写をされた彼女が、母との確執を真面目な顔して語ると、彼は、人の優しさというものがどこにでも転がっているものだと知るのである。ラストの何でも食べるよという彼は、数頁前の何でも食べるよという素っ気無さとは違う。人の思いを汲んでの言葉であるところに、彼の成長を見るのである。もちろん、画面右端に描かれ雑誌の束も見逃せない、まさに他人に見られたくない子供、登場はしないけど、両親の彼への思いというものが計り知れる清々しい場面だ。
野花が主役となる三話目が一番おかしくて、伏線の集中砲火に感動ひとしおの話である。一話と二話も十分短編としてまとまっているのに、三話はそれらを吸収して壮大な物語にまとめてしまっている力強さである。まあ壮大といっても主題は極めてこじんまりとしているんだけど、個人にとっては大問題なわけで、ましてそれを照れずに真正面から直球投げ込んでくるんだから、ここは素直に感動しときましょうよ。で、母親とぎくしゃくしている彼女のタンスの中には、理想の女の子のブログが入っていた。いや、これはかなり電波である、彼女もそれを自覚しているものの、ブログの記事を書くためにあれこれ活動し、嘘の家族、嘘の彼氏との交流を日記と称して綴る。また、クラスで気になる若松くんとのやりとりもおかしい。恋だの何だのという描写ではなく、同級生のふざけあいという按配で二人は互いの競争心を煽っているのである。
さてしかし見所はここまで散りばめてきた伏線の消化具合である。伏線というと語弊があるかもしれんが、要は物語の進展が言動から読み取れ、三人の関係・一人ひとりと周囲の関係の変化がさりげなく描かれていて、それが全てそれまでの描写・台詞に拠っている点が圧巻なのである。素直に勉強を教えてもらうようになった野花、映画の話題、公二の恋心、なかでも貫一の恋の話が一話から通して描かれているせいか、期待感が膨らんでいくうちにいろんな予感が妄想されると、再会の瞬間の昂揚感は素直に感動に昇華されていた。それもこれも、ひじょーにおとなしくて静かで扇情しない描写のためなのだ。
恐ろしいくらいに抑制された演出は、登場人物の言動を淡白にすることで果たしている。野花が活発な少女然と振舞うけれども、偽者ブログという痛い趣味でそれは相殺されているし、彼女は期待しないという感情に強く支配されている(それは一話目で攻略サイトを見ながらゲームをするところからすでにうかがえた)ので、私が劇中の彼らの行く末にいろいろと期待する感覚が野花に同調して麻痺していくのである。だから感動とか言ってるけど、それはきっと小さなものだと思う。端から見ればとるにたらない自分の感情の機微にとても敏感になっていった結果、三人の小さな悩みが大きく見えただけなのかもしれない。破裂しそうだった期待感に熱した昂揚感も端から見れば騒ぐほどのことでもない大きさだろう。でも、劇的といえば劇的な再会さえも日常の小さな思いやりには到底かなわないことを描くに、これ以外の演出はないのだ。
大事件も信じられない出来事も奇跡も僥倖もない。他人へのちょっとした思いやりを言葉に描くだけで大きな感動を得られる。岩本ナオ、タンスにしまっておくにはあまりにもったいない才能だ。
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