「ソラニン」第29話
ささやかな満足
小学館 ビッグコミックススペシャル「ソラニン」新装版収載
浅野いにお
連載終了から11年が経ち新装版として先頃上梓された「ソラニン」の巻末に彼らの11年後を描いた第29話が掲載された。
物語自体は主人公である芽衣子を中心に11年後のキャラクターの様子を描いている。もちろん読者として注目するのは、彼らがどのように変化し成長したかであろう。
ところが、今にもよだれをたらしながら真面目腐った展開を拒むような「デデデ」のキャラクター設定を「ソラニン」ではあまりに平凡すぎる芽衣子を登場させることに替えて、かえってその特徴のなさや変化のなさに、相変わらず作者は底意地が悪いなぁと旧友に再会したかのような図々しさで、読み進めたのである。
冒頭の宅配便の荷物を受け取る場面から、私は芽衣子の変化を目の当たりにしてしまったかのような錯覚に陥る。いや、それは確かに大きな変化である。井上姓が田畑姓に変わっているのだから、結婚したことが理解できる。玄関に並べられた靴類から、まだ子供はいなさそうだともわかる。同居人の男性が終始うつ伏したまま、生返事で芽衣子に顔を向けもしない。もちろん、彼がどんな顔をしているのかなんて大して意味がないのだから当然の演出だろうし、この態度が後々の伏線にもなっているのだから、短い挿話であっても、単なるファンサービスのおまけマンガではないことが窺えよう。それはまあともかく、アイと会うために狭いマンションの自室から慌てて飛び出した芽衣子は、本棚に囲まれた喫茶店と思しき場所での対話に移行する。
ビリーと加藤のライブがあると言うアイ。だが、会話の端々から、彼らが趣味でやっているにとどまっているらしい・プロにはなれなかったということが察せられ、また芽衣子の彼の年齢(五歳年下)から今の彼女たちの年齢が瞬時に計算されると、なかなかに妙齢の女性になってしまいましたな、とフィクションのキャラクターに想いを馳せつつ、それと同じく自分も齢を重ねていることに軽くショックを受ける。
個人的な感傷はともかく、この挿話の背景の緻密さがソラニン連載当時のそれと比較して、精度も質も格段に向上し、手抜きがないことにも驚く。僭越ながら、作者の成長も同時に感じることができてしまうのだ。
実は、ソラニン本編は背景の使いまわしが多く、それゆえの影の矛盾も散見されたり、それを胡麻化すための装飾が施された場面もあり、完成度そのものは低い。建物の中に至っては、素材不足のせいか手書きの筆致も多く、建物との精度の不一致もあるのだが、29話には、そんな箇所が一つもないと言っても過言ではない。
加藤の近況やビリーがまだまだ結婚できそうにないというアイのお小言に芽衣子は、一瞬、物思いに耽る。ページを捲る手つきに、読者をも少しの躊躇を感じる。三人の名前がそろったのだ。踏み出そうとする一歩にアイが思わず芽衣子の左肩に手を当てて足を止めさせた。本当に一瞬だった。アイがぼけっとしすぎと注意するも、芽衣子が何故そうなうなったのかを読者も体験したことだろう。三人のキャラクターが、あの時のように、アイによって引き寄せられ、今、そろったのだから。そして同時に、その不注意が種田をも想起させたに違いない。赤信号にもかかわらずバイクで交差点に突っ込んだ彼の姿は、読者にとってはつい先刻読んだばかりのことだけれども、芽衣子には、いや正直言えば、私自身と言い換えてもいい、私自身もその不注意があってはじめて思い出す程度の存在感でしかない種田というキャラクターが、何を思って死んだのか。ほんの数十分前に読んだ展開が、実際に11年という歳月を感じさせるほどに、現実世界のように、そんなことを忘れさせるに十分すぎるほどの長さがあった。そしてまた、彼の死は、「ソラニン」という物語を成立させるための不可分な要素であるという現実に、少し罪悪感を抱くのである。
フィクションの世界にそんな感覚を抱くのもおかしな話ではあるが、「ソラニン」は浅野いにおの生涯変わらぬ代表作であり続けるだろうし、私自身、そうあってほしいと願っているのだ。それは、映画化の影響も大きいだろう。
連載終了の4年後、2010年に三木孝浩の監督デビュー作となった「ソラニン」が公開される。芽衣子役で出演した宮崎あおいのライブ映像はあまりに鮮烈だ。だが、ここで歌っている彼女は、芽衣子ではない。宮崎あおいだ。映画監督の山下敦弘は、「ソラニン」を含めて原作物の映画が抱える役者の身体性の問題を看破した。
「(前略)宮崎あおいという女優の存在感は良くも悪くもその映画の印象を左右するほど大きいと思ったことがある。今回の「ソラニン」ではどうだったかというと正直その大きな存在が芽衣子というキャラクターのサイズにはマッチしていないと僕は感じてしまった。」(「映画芸術 二〇一〇年春号 山下敦弘「ソラニン 青春の火は消えたのか消えないのか」より)
宮崎あおいの存在感が芽衣子のキャラクターが抱える平凡さから大きく逸脱している。彼女のライブシーンは、今や人気俳優となった桐谷健太やサンボマスターの近藤洋一を従え、汗まみれになって歌い、長らく宮崎は音痴だというまことしやかな噂を否定するかのように、「ソラニン」を熱唱した。うまいとか下手とか、原作の芽衣子同様にどうでもいい。あの宮崎が、音痴だと思われていた宮崎あおいが、歌声を披露しているのだ。
何をやっても長続きしないと自重する芽衣子と重なるわけがない。そこに至る道程・ライブシーンに向けての役作りを兼ねた努力は、ファンならずとも想像できる。いや、芽衣子だって負けずに努力したさ。でも、その歌声は聞こえてこない。けれども、宮崎の歌声はしっかりと聞くことができる。宮崎も芽衣子も、お互い三十台になってもそれは変わっていないように思えた。役者として真剣に役作りに挑み、何をやっても的確に真面目に役になり切ってしまう役者魂は尊敬に値しよう。一方の芽衣子はどうだろう……在宅の仕事も辞めようと思うと、さすがのアイも呆れてしまう。けれども、それには大きな理由があったのだ。
フィクションにフィクションを重ねて架空のキャラクターを比較してしまうほどの愚を犯しても気にしない。だって、芽衣子というキャラクターは、私にとってホントに愛おしいのだから。
宮崎あおいと比べること自体宮崎に失礼なのは承知しているけれども、今、芽衣子は確かに宮崎の存在感を凌駕した。彼女は、決意したのだ。飽きっぽい彼女が、ビリーや加藤のよみがえった熱気に後押しされるように。別れの歌だと当時思われた「ソラニン」の歌詞は、今読むと、今の彼女にぴたりとあてはまる。
だが、映画を観たからこその発見もある。今の芽衣子にもっとあてはまるのは、原作にはない、映画のオリジナルライブの詩である。映画本編でもほとんどカットされてしまったが、「ソラニン」ライブの前に、実は一曲歌っていたのだ。SUPER BEAVERの「ささやかな」という歌である。
今 夢を包んで ほらまた始めよう
声 渇ききるまで ほらまだ消えないで
映画ではここで歌い終えるけれども、本家SUPER BEAVER「ささやかな」は、この後にもう一言、歌詞が続く。
「未来は見える」
29話は、本編でぬるく曖昧にされた芽衣子の未来を、確かな手応えで、照らしたのだ。
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