「少女ファイト」第6巻
講談社 KCデラックス
日本橋ヨヲコ
なんだかなぁ……日本橋ヨヲコ「少女ファイト」6巻を読んで、正直ガッカリした。冒頭のシゲルの秘密が明らかになるくだり以降に再び始まった脇役キャラのトラウマ話と「少女ファイト」そのものに物語を接続しようとたくらんでいると思しき漫画家が劇中に登場し、作者の過剰な作品愛・自作キャラ愛に辟易したというのもある。まぁ、なんというか、早く春始まれよ、ということであるが。
スポーツ漫画として読んでいた自分が間違っていたのかってくらいに、キャラクターの感情がバレーの試合を通して描かれないことに対する不満は常々あった。6巻では、練習試合で練と学が友情を確かめ合う場面があるものの、面白かったのはそこだけだった。悩みを抱えるルミコがあっちふらふらこっちふらふらと各キャラ訪問する展開は個人的につまらないし、学の弟が自身の漫画によって存在感を増していく6巻終盤は、また病気が始まったよ、と揶揄したいほどである。
もちろん、日本橋作品の自己愛の強さは過去作から貫かれているわけで、本作に限らないのだけれども、バレーというアクションによって突き動かされるキャラクターの感情が物語を駆動していくという当初の私の勝手な期待がどんどんずれていった。結局は「G戦場ヘヴンズドア」のように、仲間たちの参加によって自己の成長を遂げていく練の姿を中心にするために、練の物語上の課題を描いた後は、仲間たち脇役たちの課題を描いて練の周囲も盛り上げよう、という意図があるのかもしれない。けれども、物語の世界が広がれば広がるほど、練の存在感は希薄になっていくのも避けられない事態となるし、長編の宿命とも言える物語の締りの悪さ・テンポのなさ・間延びなんて負の要素が目立ってくるだろうし、私にとって本作は、まさにそのような作品になってしまっている。
作者は各種インタビューで自身をネーム家と謙遜するくらい作画よりもストーリー作りに力を注いでいる作家である(個人的には作画も好きなんだけどね)。そのためかどうか、毎回のように押し売り的に言葉・セリフによって物語が山場を向かえる。確かに印象的なのだが、各話各話それが続くと、まるで毎回が最終回かと思わんばかりの盛り上がりは、連載単位ならともかく、単行本で読むと、どうしても食傷してしまうのである。俺はもう中学生じゃねー、と。
さて、作者の過去の作品に「極東学園天国」がある。ここでも仲間たちが狭い学園の中で協力して戦うという構図があって、各キャラの性格付け・トラウマからの脱却・学生らしい問題提起・兄弟喧嘩・親との確執など、作品の基本的な物語の設定は他の日本橋作品とあまり変わっていないのだが、この作品は「少女ファイト」と異り、終盤に至るほど、作者の思惑を超えたメッセージ性が強烈になっていく。「少女ファイト」が今後どのような方向に物語の舵を切るのかはまだ不透明だが(それでもまあ、どのキャラとどのキャラがくっついただの離れただのばかりだろう)、「極東学園天国」には、偶然か計算か、作者の意志が読み取れるのである。
ネット上で、それについて触れた文章を何度も検索したことがあったし、これを書く前にもさんざん検索したが引っかからなかったので、この指摘がとてつもない独りよがりであることを承知で書く。「極東学園天国」には利一という、主人公・信号(シンゴ)のライバルとも言えるキャラクターが登場する。彼は絵画の才能に長け、最終的にこの才能によって物語は一応の決着を見ることとなる(主人公の才能と一緒に)。打ち切りという形のため故であるだろうけれども、その才能が作り出した劇中の作品が「ブルー・ルーム」なのだ。
物語から解釈すれば、主人公の名前がシンゴ・「信号」であることから、信号は俺(利一)が青に変えた、お前は前に進め!ということだろうか(劇中のシンゴのセリフから素直に解釈してもいいけど)。シンゴは最終的に主人公らしく仲間の先頭に立って学園の再建に立ち向かわんと胸を張るわけだが、不可解な点がないわけでもなかった、というか、ずっと謎だった。「ブルー・ルーム」は教室の壁天井とあらゆる面を青く塗りたくった作品だが、これに芸術的な価値が劇中で付される、という点である。どのへんが芸術性が高いのか、私にはわからんかった。
岡崎京子「ヘルタースケルター」の感想を書いたときに、劇中で書かれていた詩の引用元を探したことがあった。検索したところ、行きついた一つがジェニー・ホルツァーという現代アメリカの美術家だった。彼女は抽象画を学んだ後に、アトリエという小さな世界に飽き足らず、自身の作品を町の中で発表するスタイルへと傾斜していく。最初は自作の詩をポスターにして貼るというシンプルなものだったが、次第に、「作品」という形に残るのを拒否するかのように、電光掲示板などを利用した流れる水のごときスタイルへと変貌していく。紙面に焼き付けていた絵画的な主張を、空間・それに遭遇した人々の記憶の中に焼き付けようとしたのか浅薄な私には下手な憶測しかできないが、彼女の作品が空間の中で唐突に現れ、誰の眼に留まるのかも判然としないままに儚く消えていく様子は、作品とは、一度作者の手を離れたら作者自身のものではなくなるという・作者の解釈もまた読者の一人としての解釈に過ぎない、今となっては当たり前の「作者の死」を自ら振舞っている印象さえ私は感じている。そんなホルツァーが現在行う美的様式に行き着く契機・抽象絵画が自身のアトリエの壁天井など全てを青く塗りつぶした「ブルー・ルーム」だったのである。「極東学園天国」のブルー・ルームは、日本橋ヨヲコが自分自身の愛する作品という天国へ踏み出すためのスタートの合図・青信号だったのかもしれない。
そんな妄想にたどり着けば、「極東学園天国」の次作である「G戦場ヘヴンズドア」は天国の扉を開ける物語、とタイトルから説明できることが出来るだろう。そして「少女ファイト」において安定した人気を獲得したと思われるが、そこでようやく作者にとって天国の物語、自分の好きなキャラクターたちが入り乱れる楽園を築こうとしているのだろうか。ホルツァーが絵画の記号性を言葉の抽象性に洗練させて作品から作者を消していくのとは対照的に、日本橋は「少女ファイト」で自分を前面に出そうとあの手この手を今後も繰り出してくるに違いない(ホルツァーと日本橋を比べること自体ホルツァーに失礼に話なんだけど。同じ分岐点を偶然経験していながら、全く違う表現に向かっている二人の作家の資質の差を目の当たりにした気分だ)。
「極東学園天国」打ち切りの仇を「少女ファイト」で討つ、と言われても、一読者である私には、はた迷惑な話だ。
(ホルツァーについての参考サイトhttp://www.linkclub.or.jp/~kawasenb/holtzr.html)
(2010.3.29)
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